関西圏の旗振り通信網

はじめに 

 背後に六甲山系を控える神戸の市街地は、東西に横長く広がっている。その西端が須磨で、最先端の須磨浦に源氏と平家が戦った「一の谷・逆落(さかおとし)」の古戦場がある。
ここは、西六甲の急傾斜が海に迫り、海岸沿いの狭い土地にJR山陽線、山陽電鉄、国道2号線が集中する。
万葉の時代、この西国街道の須磨浦には、関所が設けられていた。
(淡路島 通ふ千鳥の鳴く声に いくよ寝覚めぬ 須磨の関守 源 兼昌)

 1688年、松尾芭蕉は須磨浦を訪れ、子供の案内で逆落を探るため鉢伏山に登った。
「羊腸険阻の岩根を這い上り」と急峻な登山を『笈の小文』に記している。
現代は、ロープウエーで一気に見晴らしの良い馬の背の鉢伏山に着く。

 そこに立ち、東を観れば摂津の国(神戸の市街地)、南を観れば淡路島と明石海峡、西を眺めれば播磨の国(明石の市街地)が広がっている。
芭蕉は、「蝸牛(かたつむり) 角ふり分けよ 須磨明石」と吟じた。

 山道は北に続き、少し先にはさらに見晴らしのよい場所があるとの標識。そこは、標高253mの「旗振り山」だった。  
鉢伏山をしのぐ見通しの良さから、マイクロウェーブが林立し、登山客用の休息所があり、説明板がかかっていた。

 「ここ旗振り山はその名の通り、旗振り通信をしていた場所である。
江戸時代から大正初期、電信が普及されるまで、ここで畳一畳くらいの旗を振り、大坂・堂島の米相場を加古川、岡山に伝達する中継点だった。
そこから『旗振り山』の名が残っている。では、「米相場」「旗振り通信」と何だったのか?  

               
                               旗振り山
 
「米相場」と「旗振り通信」

 明治9年(1867年)7月1日付の東京日日新聞に次の記事が見える。

 「米相場の伝言につき面白き一報を得たり。阿波徳島の米相場は、南海道の最も盛んなる相場所にて、常に大坂堂島の直段によりて高下をなし、掛け引きを附け、またたくうちに知れると云う。ゆえに、それはいかにして知れるやと不審に思い、その委細を聞きたるに、まず大坂より神戸、明石、淡路の岩屋、志筑、福良まで処々の山頂に人夫を出し置き、刻限を期して長き竹竿の先に白紙の采配を附けてこれを振り、阿波の鳴戸を間に挟み、山より山に合企図を移し、撫養より徳島まで達し、采配の振る数にて相場を通ずるの手続きなりとぞ・・・」

 「旗振り通信」とは、大坂・堂島の米相場を、見通しの良いやぐらや、小山に設けた中継所で旗を振ることで、西日本の各地に迅速に情報を伝えた中継所のようだ。 

 江戸時代中期、大坂には日本各地からコメが運び込まれていた。
四国・九州はもとより、北陸・東北のコメも北前船で日本海〜瀬戸内海を経て、大坂へ運ばれた。
堂島には、コメの現物取引だけでなく、全国で唯一の先物取引を行う幕府公認の「米会所(市場)」があったからだ。

 そのため堂島米会所の取引価格が、全国の米価の基準となっていた。
また当時、米価が諸物価の基準であり、コメが事実上の通貨でもあった。
したがって諸藩の御用掛、各地の米商いの豪商たちは、刻々と変動する米の相場を知ろうとし、情報の伝達・速達に工夫を凝らした。

 遠隔地に米相場を伝える方法として、飛脚が用いられた。
「米飛脚」「状屋」と呼ばれ、韋駄天ともてはやされたが、大坂(ママ)から江戸まで早飛脚で4〜5日、普通の飛脚で7〜8日かかった。 
だがそれでは、日々の価格変動への対応は難しい。
特に先物取引では、相場の上下を迅速に知ることで売り買いと決済のタイミングを見計らうことが、儲けの基本になっている。

 米会所が、天保山から堂島に移ったのは元禄10年(1697年)。
この時、大坂に旗振り通信があったかどうかは不明。
一説に、紀伊国屋文左衛門が江戸で色旗を用い、米相場の高低を通信したのが「旗振り通信」の起源とされる。

 だが、幕府に運上金を支払う飛脚問屋からの抗議で、幕府は何度も禁止令を出していた。
不法かつ闇の手段だったので、文献に見当たらないのだろう。

 その禁止令が文献に登場するのは1775年。
幕府の直轄地である大坂・摂津・河内の村々に、「旗振り通信禁止」の触書を出している
。趣旨は、「米飛脚」の生活を守るためで、旗・鳩。遠眼鏡(とおめがね)を用いる情報速達を「抜け商い」として禁じていた。

 しかし、禁止区域がそれら幕府の直轄地に限られたため、旗振り通信はその区間のみ飛脚を用いるか、旗振り通信を迂回させて続けていたようだ。
関西では不法の旗振り通信が行われ、ネットワークができていたと思われる。

 では、当時のネットワークはどれほどだったか。
郷土史研究家・柴田明彦氏の著書『旗振り山』では、次の通り。

 西ルート、神戸〜明石、そこから淡路〜徳島ルートと、姫路〜岡山〜広島〜下関〜福岡に分かれる。
 北西ルートは、三田〜三木〜社〜氷上。南ルート、和歌山。
 東南ルート、奈良。
 北東ルート、京都〜大津〜長浜。
 東ルート、伊賀〜桑名〜名古屋〜江戸。

 

 当時(1805年)の米会所は、幕府の公認が大坂、京都、大津、地方藩主の許可が赤間(下関)、桑名、松坂、金沢、酒田、鶴岡にあった。
東北・北陸を除き、情報ネットは繋がっていた。

 この「旗振り通信」が、幕府に公認されたのは1865年。
英仏蘭の軍艦が兵庫沖に来襲した際、六甲の旗振り通信所がいち早くこれを発見。異変を京都の所司代に通報。
その功績により、禁止令が解かれた。
コメの急騰が予想される経済危機もさることながら、国難対応への利用も兼ねることになって、幕府はようやく「旗振り通信」を追認したのである。

 明治期、新政府は旗振り通信を公認した。
大坂では、複数の業者が現れて競合したため、「浪花の名物」ともてはやされた。
米等の取引所の屋根や小高い丘に櫓が組まれ、そこで大旗が振られ、中継所を経て西日本の各地に情報が転送されたのである。  

               
                    明治初期の堂島浜(屋上の櫓で旗を振った)

 大坂市内に電話が敷かれたのは明治26年。
大坂〜和歌山間は電話の接続に一時間以上かかり、旗振り通信なら3分で伝わったことから、明治中期は安くて速い旗振り通信は花形だった。
明治36年になると、市内は電話を使い始めたが、市外へは旗振り通信を用いていた。

 やがて、市内に高い建物ができて見通しが悪くなったことや、明治42年の大火で堂島の櫓が姿を消したため、大坂市内はすべて電話利用に転換された。

 大正3年、市外電話の予約が可能になり、電話の方が便利となった。
そのため、天候気象・建物障害に左右される旗振り通信は、大正7年に消滅した。今からおおよそ百年前である。

「旗振り通信」の実態は?

 ● 通信の目的と内容 
 これだけもてはやされたのは、米相場の変動による儲けだけでなく、油、株、金銀相場取引にも用いられたためである。
そのため旗振り通信は、双方向の機能を担っていた。
堂島の相場を各地に伝え、各地の豪商はそれをもとに堂島の代理人(ディラー)に取引量や指値を指示した。
したがって、一日の通信回数は夜間を含め、5〜10回にものぼっている。 

 ● 使用道具と中継所 
 昼間は大旗、夜間は松明や提灯を用いた。
旗の大きさは、大旗で畳1畳、小旗で半畳程度。木綿製の白又は黒色。気象に応じて変更した。
現代も大旗を振る習慣は、球場でのスポーツ応援に見られる。

 もう一つの道具は、望遠鏡(大正期は双眼鏡)と時計。
望遠鏡は、各地の旗振り通信者が家宝として残している。
製品は、フランス製、ドイツ製が多く、長さも90cmを超す大型(15〜25倍)が見られる。
20倍になると手ぶれで読み取りにくいので、脚で固定して用いた。

 中継所は、山や丘の頂上でなく、森林背景のある中腹が選ばれた。
背景が空になると旗が見えづらくなるからだ。
また、通信依頼者・顧客との連絡の容易性も考慮された。
通信箇所そのものは、簡単な小屋(雨露を防ぎ、天候回復を待つ)を設けていた。

              
                   大津追分 相場旗振・官林巡邏図

 ● 旗振り要領と保全 
 時代や業者によって異なるが、基本は旗を体の右や左などで振って、その位置・回数・順序で、合い印(合標)や相場の上げ下げや数値を伝達した。

 天保の書物には、「左の方へ6回 右へ7回 前へ8回 後ろへ9回振りし時は、米1石につき代銀6拾7匁8分9厘と知る也」とある。
単純明快で、1回の信号は1分程度で終わる。
だがこれだけでは、同業者に見破られて儲けを独占できない。
何しろ遠くから見える場所で旗を振るし、望遠鏡を用いて観察を続ければ、数値は読み取れる。
プロ野球のブロックサインと同様、秘密の保護が欠かせない。
そこで、数値をごまかすため旗の振り方や、日々にプラス・マイナスの一定数を加減する方法(臺附)が採られていた。

 ● 中継所間の距離 
 時間の短縮・保全・運営費の点からは、中継所を少なくし、距離を長くした方がいい。
一方、雨・もや・霧・等を考慮すれば、中継所が多い方がいい。
地理・気象・障害の有無が決め手になるが、望遠鏡を用いるのでかなり遠くまで見通せた。
実地検証と実験結果から、明治期に利用された旗振り場間の距離は、14〜21km、平均12km程度とされる。
また、雨の後は濃霧が発生しやすいので、通信可能な丘陵地を補助的に設けたところもある。

 ● 遠隔地での所要時間 
 ではどれくらいの時間で伝わったか。
郷土史研究家の報告では、堂島から和歌山へは3分、天保山経由の場合は6分(『旗振り信号の沿革及仕方』)。
堂島から京都までは4分、大津まで5分(大津市歴史博物館でのセミナー)。
神戸までは7分(『火と馬と旗 12』)。桑名までは10分(『旗振り通信について』)。
岡山までは15分(『岡山太平記』)。広島までは40分弱(『こめと日本人』)

 熟練の旗振り通信員が1分間で信号を送り終え、天候に恵まれてスムーズな伝達・中継が行われ、中継距離が12kmだったとすると、時速換算では720kmという驚くべき結果になる。

 そこで、昭和56年、大阪〜岡山間で旗振りの再現実験を行い、新聞発表で2時20分を要した。
現代は、スモッグや高層建築から、大阪〜旗振り山間が問題だった。
そこで中継所をかっての12カ所から25カ所に倍増し、経路も堂島→尼崎辰巳橋→武庫川堤→芦屋旗振場→神戸碇山→長田高取山→須磨旗振山を小修正し、167kmを繋いだ。
テスト段階では、通信の途切れ、受信数値の間違いも生じた。
明治期の旗振り通信の実用性は讃えられていい。
というのも、実験時に同時に打った電報は岡山まで20分かかったが、明治期の旗振り通信はそれより5分も速く届いていた。 

               
                   「オカニチ」 昭和56年12月7日

 ● 旗振り通信の運営 
 明治に旗振り通信が公認されたことから、地方の新聞社が中継所のネットを設け、旗振り師をれっきとした通信員として抱え、給料を支払い、ネットワークを維持運営していた。
通信員は、時代の先端を行く職業で、かなりの高給を得ていたようだ。

 ● 旗振り通信の廃止 
 欠点は悪天候に大きく左右されること。
江戸期は天候回復を待つか、米飛脚によるしかなかった。
明治期になると、値段が高くなるものの電報を用いざるをえなかった。

 明治6年の電報料金は和文一音信20文字で、東京〜岡山間が27銭もした。
米一升が3〜4銭であり、カタカナ2文字が3銭だったので、利用者からは敬遠されたようだ。
大正に入り、電話が普及して安くなったことから、旗振り通信は自然に消滅した。

関東圏の旗振り通信は?

 これだけ迅速で便利な旗振り通信だが、関東圏での発達はあまり聞かない。
樋口清之氏が『こめと日本人』のなかで、大坂から江戸までは、箱根越え(三島〜小田原)に飛脚を用いて8時間かかり、飛脚を除いた時間は1時間40分との計算が伺える(種本は西鶴の『好色一代男』の「米相場と望遠鏡」)。
それでも全行程を飛脚にした場合は3〜5日かかったのだから、8時間〜10時間というのは、かっての東海道線特急「つばめ」とほぼ同じということになる。

 それを裏付ける名古屋ルート・旗振り山の研究も、郷土史家によって進められている。
安政6年(1859年)の中継所は、静岡、濱松、岡崎、豊橋、名古屋、桑名とされるが、実際の地点は現在も特定されてない。
都市化・開発によってその地が消滅したのかもしれない。

 旗振り通信が禁じられていた江戸期、三井家は自前の「旗振り+飛脚(箱根区間)」の複合手段をもって、金・銀の相場とコメの相場を扱い、大儲けしたと言われている。
主体は、米相場より金銀相場だった。
当時、関西は銀、関東は金で取引・決済され、金と銀の交換比率は変動相場制である。

 百万都市の江戸は、コメの大消費地であり、諸大名が参勤交代で屋敷を江戸に構えていた。
西国の大名は、銀貨を金貨に交換しなければならなかった。 
ではなぜ、関東圏で米相場の「旗振り通信」が見られなかったか。以下は、筆者の私見である。

 ● 先にも触れたが、幕府は飛脚を守るとして旗振り通信を禁じていた。
また、徳川幕府に対する謀叛に利用されかねないとの意図があったと思われる。

 ● そこで幕府は、迅速・長距離の通信制度として「御用伝馬制度」を確立し、商人等には駅の設置、農民等には馬の提供を科していた。(黒船来航時、浦賀〜江戸の間で実施されている)

 ● 幕府にとって、百万都市・江戸のコメ問題は、価格高騰と供給量の確保にあり、しばしば米騒動が起きた。
そこで幕府は、黒船来航に伴う江戸湾封鎖の対策として、逗子〜東京湾、利根川〜東京湾の運河建築を構想した。

 ● 一方で幕府は、供給確保や米価急騰を防ぐため、関東圏のコメ商人に、全国のコメの作柄や価格変動について情報を与えていた。
その一例として、黒船来航直後の情報書の写しが、水戸の豪商の自宅から大量に発見されている。

 こうした政治的な要因から、関東圏には旗振り通信が発達しなかったと推測している。

おわりに

 旗振り通信で思い起こされるのは、古代律令社会の「烽(ほう・のろし)である。
8世紀にできた『養老令』には、細かい「烽」の規定が見られる。

 ● 「烽」は、40里(6町1里の里、約25km)ごと、見通しのよい所に置く。
(狼煙としては、狼煙又は火を用いたようだ)

 ● 「烽」に居る者(担当者は烽長、実施者は烽子)は、昼夜とも一定時刻にお互いの「烽」を眺望せよ。
昼ならば、煙を上げ、夜ならば火をつけて連絡せよ。

 ● 賊が境界を侵して来たら、すぐ「烽」を使え。
合図の仕方は、外使の船に対しては一火。賊とわかれば二火。二百隻以上ならば三火とせよ。

 須磨の旗振山に続く西の中継所は、明石の「畑山」(JR朝霧駅北方)とされる(明石市教育委員会編『ふるさとの道をたずねて』)。
そこは40mの台地で、現在は団地群の一角に変貌している。
相場を仕切る通信を行った山や丘は、旗振り山、相場振山(ソバフリ山)、相場取山、旗山、高旗山と呼ばれることもある。「畑山」の地名も、元は「旗山」だったようだ。

 この明石の「畑山」周辺からは、大量の貝塚が発見された。権力者の墓とされる五色塚古墳も現存する。
明石海峡の渡船場であり、統制所でもあっただろう。
今は、明石海峡大橋がすぐそこにある。
だから、古代の「「烽」が置かれていたとしてもおかしくない場所と思われる。

            
                      明石海峡を見下す五色塚古墳

 しかし『養老令』には、対馬、壱岐、筑紫、隠岐、出雲などが出てくるだけで、瀬戸内の場所についての記述はない。
また、『播磨風土記』に「烽」の記述はない。
「烽」はもっぱら、外敵に面する沿岸にのみ設けられたとの説もある。
そうなると須磨の旗振山・明石の「畑山」は、古代「烽」としての期待がなくなる。

 それでも、『続日本紀』に「高安烽を廃して、高見烽(生駒山)・春日烽を置く」との記述があるので、平城京の高官は生駒連山からはるか摂津・播州境界を望んでいたのではなかろうか。(『神戸市史』)

 近くに「須磨の関」(国を守る関所)があったことなどを考え合わせると、西国からの異変を急報する手段として、この要地に「烽」の設置は必須だったと推測し、こだわっているのだが、どうだろうか・・・。

 「烽→狼煙→旗振り→マイクロウエーブ→携帯電話→衛星通信」への進歩・発展を、郷土誌で確認し探訪し、大和民族のロマンや、日本人の活力にひたれるのも、定年生活者の特権のように思う。

 ちなみに、淡路島を望む白砂青松の須磨浦の地には、文人・墨客の逗留も多く、「春の海 終日(ひねもす)のたり のたりかな」の与謝蕪村の句碑が建っている、

主な参考資料
 ・ 柴田昭彦『旗振り山』ナカニシヤ出版
 ・ 郷土研究誌『歴史と神戸』240・302号 
 ・ Wikipedia 「旗振り通信」「米相場」
 ・ 神戸市編纂『神戸市史 歴史編』
 ・ 渡辺久雄『忘れられた日本史―歴史と地理の間』創元社刊



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喜田 邦彦
 6 区 隊
 職種:普通科