ペルシャ浪漫紀行 2011.10.4〜10.11


                                  ◎ イランのポピュラーソング(男性)
                                  ◎ ペルシャの楽器タール(生録音)
                                  ◎ ペルシャの楽器セタール(生録音)
                                  ◎ ペルシャの楽器キャマンチェ(生録音)

「イランに観光旅行に行く」と言うと「危ない国じゃない? 大丈夫?」と聞かれるので、「ペルシャに観光旅行に行く。」と言って出かけました。
結果は、「大変満足して、無事帰ってきた。」ので、一応、大成功でした。

旅の始まり

   平成23年10月にペルシャ旅行を楽しんできました。 
本当は「イラン旅行」というべきなのでしょうが、「イランに行く。」と言うと、「大丈夫?」と心配げに聞かれるので、「ペルシャに行ってくる。」ということにしました。
事前の予定が立て込んでいたため、ビザ取得期限ぎりぎりに「2名以上で催行」というツアーをWebで申し込みました。 羽田から関空、ドバイ経由でテヘランに到着しましたが、関空、ドバイ間は正味約10時間、ドバイ、テヘラン間は約2時間の旅でした。

 テヘランで飛行機から降りると、イランでは外国人女性もスカーフをすることが決められているので、妻もスカーフをして入国。 また、機内で入国申請書が配られなかったので、どこに置いてあるのか探していましたが、ビザだけで良いとわかって簡単に入国できました。
入国審査が終わって、ガイドさんの出迎えを受けましたが、やっぱり、予想通り私と妻の2名のみのツアーで、専属ガイド・ドライバー付の大名旅行でした。 ガイドさんは40歳代の男性で、昔、日本で働いていたことがあり、日本語で違和感なしに会話ができました。

           
イランがイラクと接しているのは知っていたが、こんなに多くの国々と接しているのを改めて確認した。

テヘランからシラーズへ
 テヘランでパーレビ国王時代の宮殿や考古学博物館を見て、市内のホテルで一泊した後、南部のシラーズに飛びました。
イランは人口約7000万人、国土は日本の約4.4倍ですが、上空から見るとずっと禿山と砂漠が続いていました。 
国の西方にザーグロス山脈、北方にアルボルズ山脈という4000m級の山脈があるため、いつもフェーン現象のように国土が乾燥してしまうのだそうです。 ちなみに「柘榴(ざくろ)」はザーグロス山脈から来た言葉だそうで、大きな柘榴をよく目にしました。

テヘランの高級住宅街にあるパーレビ王家の豪華な元離宮。 
仲の良かった頃にはカーター大統領も宿泊したそうだ。
絨毯博物館を見学。インフレ傾向が強いイランでは、金などとともに、絨毯への投資が盛んに行われている。

空から見たイランの大地

ペルセポリスとシラーズ
 シラーズの近郊にある、ペルセポリス(世界遺産)の遺跡を見ました。 約2500年前、アケメネス朝ペルシャのダリウス1世が作った立派な宮殿跡で、ペルシャが28カ国の植民地を持っていた大帝国だったことがわかります。 
 このペルセポリスは、植民地の代表者を集めて太陰暦の新年(春分の日)を祝うために築かれたそうで、植民地の人々が貢物を届ける姿や、王族や兵士の姿、牛(冬)を食べるライオン(春)の姿などのレリーフが良く保存されていました。 
 なお、ペルセポリスが造られた頃は、緑の森に覆われていたということでした。

クセルクセス門
ペルセポリスはダリウス1世がB.C.520年頃建設に着手した。
クセルクセスはダリウス1世の息子。
ライオン(春)が牛(冬)に噛みついているレリーフ。
ペルシャ帝国はB.C.331年アレキサンダー大王によって滅ぼされ、宝物殿にあった金銀財宝は、1万頭のロバと、5000頭のラクダでもち出されたそうだ。
クセルクセス門をバックに、ガイドと共に尺八を吹く。
後日、テヘランでイラン音楽博物館を訪問し、尺八のルーツであるネイとご対面することになった。

 その日は、ダリウス1世の墓などを見て、シラーズの町で泊まりました。 シラーズはイランの中でも美人の産地ということで、若い女性の2人に1人はクレオパトラのような美人でした。 
ただ、「眼力(めぢから)」があり過ぎてブルッてしまい、写真を撮りそこないました。 本当は心優しく、恐くないということでしたが、かろうじて店員さんにOKを貰って写真を撮りました。 ガイドさんによれば、イランの女性が化粧にかける時間とお金は、日本人の女性の10倍くらいだそうです。

 シラーズ大学は医学部のレベルが高いそうで、また、シラーズの人たちはロマンチストが多く、シラーズ出身の抒情詩人ハーフェズとサアディの廟には今も若者たちが集まっていました。
イラン人はヨーロッパ人やインド人等と同じアーリア系の民族で、アラブ人とは違う人種に属しています。 また、アラブ人というのはアラブ語を話す人たちのことを指すそうですが、イラン人はペルシャ語を話します。 イラン人はアラブ人に支配された時にも、秘かにハーフェズやサアディたちの詩集を子供たちに読み聞かせ、ペルシャ語を守ったそうです。

サアディ廟。 イランの人はロマンチストで、シラーズは詩人ハーフェズとサアディを生んだ町 シラーズは美人の産地として有名で、クレオパトラ級の美人がゾロゾロいる。

シラーズからヤズドへ
 翌日、ダリウス1世の更に2代前のキュロス王の墓(世界遺産)を見たりした後、禿山や、砂漠の中を430km移動して、ヤズドという町に移動しました。  ちなみに、イランでは一般道路でも最高速度制限120km/hで走ります。

 昔、外国旅行をした時は「TOYOTA」や「DATSAN」などの日本の中古車を多く目にしましたが、今回、イランで目にしたのは殆んどがフランスの「プジョー」と「プジョーとイランの合弁車」でした。 プジョーはイラン国内に組み立て工場を持っているため関税が安く、車の値段が安いのだそうです。 日本車は関税が90%もかかるため、今や、日本車を買う人は大金持ちのマニアだけだということを聞きました。

 最近では、韓国製の「KIA」等の車が増えているそうです。 イランはもともと、「おしん」の日本が大好きで、電気製品も昔は品質の優れたソニーやパナソニックが人気でしたが、最近では、韓流ドラマが大人気で、電気製品も安くて品質も十分な韓国製に人気が移ったそうです。 
日本人が内向きに慢心している間に、世界はどんどん変わってきているということを実感しました。

 イランの道路沿いには、イラン・イラク戦争で亡くなった兵士の写真が掲げられていました。 イラン・イラク戦争は、1979年2月のイラン革命の直後の1980年9月に始まりましたが、当時、革命直後でイランの軍隊が崩壊していたため、若者たちがボランティアとして参加し、イラクと戦ったという歴史があり、戦没兵士を称える写真が多く掲げられているのだそうです。 

ダリウス1世一族の墓を見る。
ダリウス1世は、ゾロアスター教(拝火教)の教徒で、この墓にも鳥葬のための入口が見える。
キュロス王の墓。 キュロス王はダリウス1世の2代前の王で、B.C.540年頃には、すでに24の植民地を統治していた。
イラン南部では、遊牧民が山羊を飼っている。
遊牧民は、服装も異なっている。
イラン・イラク戦争の戦没兵士の写真

 ヤズドにはゾロアスター教(拝火教)の本部があり、聖なる火が灯もされていました。 
ゾロアスター教の神は「アフラマズダ」であり、MAZDA自動車もこの神の名前から取ったそうです。
この町では70年ほど前まで、「沈黙の塔」といわれる所で鳥葬が行われていたそうです。
また、キュロス王やダリウス1世もゾロアスター教徒でした。

ゾロアスター教の聖なる火 「沈黙の塔」

イスファハン
 翌日、ヤズドから砂漠の中を330km移動して、世界遺産のイスファハンの町に行きました。 イスファハンは関が原の戦いと同じ1600年頃に、サファビー朝ペルシャのアッバース1世によって都が造られ、「イスファハンは世界の半分」と言われるほどの繁栄だったそうです。 この言葉のとおり、予想通り、今も素晴らしいものでした。

 イスファハンはイラン高原最大の川、ザーヤンデ川の中流に位置し、アッバース1世が国民にプレゼントをした「イランの真珠」と言われる古都で、今でもイランの国民は日本における京都のようにこの町を愛し、修学旅行の生徒や、若いカップルや家族が旅行に来ていました。
 ザーヤンデ川に架かる美しい橋を見ました。残念ながら、ザーヤンデ川の水は枯れていました。 イランは石油やガスの資源に恵まれていますが、年間雨量が30ミリ程度の乾いたところも多く、一日に1500ミリも雨が降る日本は水資源に恵まれた国だとつくづく思いました。

ザーヤンデ川に架かる橋の上で イスファハンのイマーム広場

 私達がイマーム広場で休んでいると、通りがかりの人たちから「どこから来たの?」とか「一緒に写真を撮って良いですか?」などと話しかけられました。 日本人は珍しいようです。

イマーム広場のシェイフ・ロットフォッラー・モスク モスクを見学する女子学生
マスジェデ・イマームのモスクは美しいタイルで飾られ、中央で音を出すと、すごい反響音が聞こえ、イスラム教の説教がよく聞こえるようになっている。 マスジェデ・シェイフ・ロトフォッラーのモスクの天井。
孔雀の模様になっていて、尾の部分は差し込む太陽光で作られる。 時間とともに尾の向きが変わる。

 1647年、隆盛したサファビー朝のアッバース2世によって建てられた迎賓館が、チェヘル・ソトゥーン博物館として残されており、美しい壁画に、その栄華を見ることができました。

チェヘル・ソトゥーン博物館。
1647年、アッバース2世によって建てられた迎賓館。
建物の柱は”すずかけ”を使っている。
内部にはサファビー朝の栄華を物語る壁画が描かれており、
客人にサファビー朝の偉大さを語りかける。

 バザールに行ってみましたが、果物が豊富に出回っていました。 イランは暑くて乾燥した国なので、スイカや胡瓜、トマトなどのサラダが大変おいしいと感じました。

 食事の話をしますと、まず、前菜のサラダの後、メインディッシュは牛、羊又は鶏のケバブ(焼肉)が定番で、長いパサパサ米にバターを溶かして食べるのが一般的のようで、結構イケました。 もう一つの定番は、肉と、なす等の野菜やクルミ等の煮込み、これもよく出ました。 見た感じではイラン人は男女を問わず日本よりは大食漢のようでした。 

 また、イランはノン・アルコールの国で、私としては、久しぶりに1週間ほど肝臓孝行をしましたが、乾燥した国なので食事には水だけで十分な自分を発見した旅でもありました。 
「イランでは若い人たちは、ノン・アルコールで不満は出ないのですか?」と聞くと「彼らは生まれた時から、ノン・アルコールですから、別に不満はありません。」という優等生的な答えでした。

バザールで売られていたスイカ 煮込み料理とノン・アルコール・ビール

ペルシャは音楽の故郷
 私は尺八を吹くのが好きで、旅の記念にペルセポリスで尺八を吹きましたが、たまたまガイドさんが「イラン音楽博物館」のヘイダイ先生と懇意だということで、2人だけのツアーの気軽さも手伝って、音楽交流の機会を作ってくれました。
 イスファハンから飛行機でテヘランへ戻り、渋滞の中、「イラン音楽博物館」へ急ぎ、尺八の源流である「ネイ」やギターの源流の「タール」や「シタール」、また、琵琶の源流などを見せてもらいました。 
また、尺八とペルシャの民族楽器をそれぞれ、説明を加えながら演奏したり、「ネイ」の吹き方を教えてもらったりしました。 

 この交流を通じて「ペルシャは、音楽の故郷」の感を深くしました。 ペルシャの楽器はアケメネス朝のペルシャからのシルクロードを通って中国に伝わり、更に飛鳥・奈良時代の日本に伝わったと考えられますが、この間に千年の歳月が経っているんだなということが思い起こされました。

テヘランの高級住宅街にある「イラン音楽博物館」を訪問する。
この楽器「タール」は、ギターなどに発展したそうだ。 
「バルバット(または、ウード)」は琵琶の源流であり、中国を通って奈良時代には日本に到達したらしい。
この人は楽器製作者であり、優れた演奏家としても有名。
「カマンチェ」という楽器は、胡弓として中国に伝わり、日本に伝わったのだろう。
私が尺八で「川の流れのように」「三谷菅垣」を吹くと、「ネイ」を取り出して、吹き方を教えてくれた。
トライしてみたが、なかなか鳴らず、ギブアップした。


イランは危ない国?
 イランは危ない国というイメージを持っていましたが、行ってみると、そんなことは微塵も感じることはありませんでした。
イランは教育費・医療費が無料の天国のような国です。 但し、国公立校は無料でも、私立校は有料のため、塾等に通うお金など、厳しい状況のようです。 イランは世界2・3位の石油・ガスの生産国であり、金や、ウランなどの鉱物資源も豊富なようで、国民も若者が多く、年金は30年掛けると40歳代でも受けられるそうです。

 日本に帰って来て、「年金68歳開始か?」などの記事を見て、我が国の老齢化と貧困さに愕然としました。 
また、イランでは、ガソリンは昨年まで10円/リットル 程度だったのが、トルコなどの隣国との価格差がトラブルを生むため、70円/リットル 程度に値上げをしたそうです。 ただし、その補償として、国民1人あたり月額50ドルを支給しているそうで、車に依存し、家賃の高騰に悩む都市の住民には不評ですが、地方の住民には好評のようです。 

 イランではインフレ対策として、市民が銀行からお金を借りて、不動産を買うという行動に走り、バブル化が起こっているようで、そのため、中小銀行も乱立しているようです。 ただし、治安は安定して、安全な国なので、道路の面した所にATMがあり、私の眼からは、泥棒にお金を盗られないか心配するほどでした。 若者達の失業率は高いようですが、乞食の姿を見かけることもありませんでした。

テヘラン市内の想像を絶する交通渋滞 道路に面した銀行のATM

イランの次なる革命は?

 テヘランでは、女性が夜遅く独り歩きをしても危険でないとのことでした。 ホメイニ革命で、イスラム原理主義による女性の地位・権利の抑圧など、もうとっくの昔のお話です。女性を黒いベールの中に押し込めても、黒いコートのサイズは毎年短くなり、コートの下にはジーパンをはき、スカーフも毎年、カラフルになり、髪の毛の露出度も上がって来ています。 
 町を走るバスの中は男女別のコーナーに区分され、地方では男性が前方コーナーに乗っていますがテヘランでは、女性にバスの前方のコーナーを、占拠されています。また、大学生の60%も女子学生です。こう見ると、「ホメイニ革命」の次は「女性革命」になりそうだと思わざるを得ません。
 
前方車輌を女性に占拠された連結バス ペルシャの若い女の子が「さようなら」

名残は尽きねど
 さて、名残は尽きねど、日本に帰ってからの予定の期限が迫まり、エミレーツ航空でドバイ経由、パミール高原やタクラマカン砂漠の上空を通って我が家に帰りました。 ケバブと煮込みの濃厚な食事で、弱っていた胃袋も、「サバの煮付け」や「うどん」などのサッパリ系に再会し、ようやく安定感を取り戻しました。 アルコールもしっかり復活しました。 やあ、いい旅をしました!!

ドバイ空港はいつも不夜城 10月中旬 パミール高原はもう雪景色

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