はじめに 冒頭から私事で恐縮だが、実は小生、湯布院の出身です。 中学生の頃に駐屯地が出来、部隊が配置された。 最初はさほど関心を持たなかったが、十数名の隊員が時々隊列を組み、ラッパを吹きながら町内を整然と行進する「かっこよさ」に感動していた。 また、駐屯地内コートでバレーボールの練習・試合をさせてもらった際、頂いた部隊食に感激した。 そうした憧れから、少年工科学校を受験したが、入隊できなかった。後に防衛大学校に無事入校した。 退官後、元輸送学校長の金澤孝一氏陸自58に勧められ、偕行社に入会した。 「川柳教室」への投稿を目的としていたので、一般記事は、項目を見る程度だった(申し訳ありません)。 だが「駐屯地紹介シリーズ」は少しばかり興味を持っていた。故郷、湯布院駐屯地の紹介記事は、是非とも拝見したいと思っていたからである。 そんな折、計らずも編集委員から「湯布院駐屯地紹介を書いてみないか」と持掛けられた。 湯布院と聞いては断りきれず、浅学菲才・未経験との無謀を顧みず、引き受けた次第である。 湯布院の概要 「湯布院」という名は、由布院町と湯平村が合併した際、由布院の「由」を「湯」に変えた新しい呼び名である。 由布院の由来は、豊後風土記に、「この郷に栲樹多く生し、栲の皮より木綿を造れり、よって柚富郷という」とあり、これに因っていると言われた。 またこれ以前に、古代日本語の、「清浄で汚れのない」という意味の「ゆ(斎)」と、「〜のある処」という意味の接尾語「ふ(生)」で形成され、「浄められた処、聖なる地」という呼称が、そのまま地名になったとの説もある。 平成17年に、湯布院、庄内、狭間の3町合併で「由布市」が誕生し、現在は由布市湯布院町である。 人口は1万2千人で、湯布院町発足当時とあまり変わらない。 しかし40年前は、第一次産業の農林業が主体だったのに、今は第三次産業である観光・物品販売業の就業者が約85%を占めている。 温泉の源泉は町内3地域、8百有余にのぼり、一昼夜に6万キロリットルの温泉が湧出している。 この量は全国第2位とされる(第1位は別府)。 町民は、温泉に癒され、温泉とともに暮らしてきた。そしてまたこの温泉は訪れる人をもてなしてきた。 平成17年、NHK朝の連続テレビドラマ「風のはるか」では湯布院温泉が舞台となり、その知名度が一気に高まり、今も「観光地人気調査」で常に上位にランキングされている。 「全国屈指の観光地湯布院」を訪れる観光客は、年間4百万人を超えるそうだ。 湯布院駐屯地もまた、温泉と無関係ではない。細部は後述するが、観光客の人気スポットの一である「湯の坪街道」から、わずか300mのところに所在する。 観光ガイドブックのマップにも小さな文字で記載されているが、観光客は気にも留めないだろう。また、偕行読者には湯布院温泉を訪れた方も多いと思われるが、そんな近くに駐屯地があったとは、思いもよらなかったのではなかろうか。 湯布院駐屯地誕生の秘話 町民の間には「由布院盆地は、太古の昔、豊かな水を湛えた湖だった」という伝説がある。 そんな伝説のロマンとは程遠い混乱状態が、終戦後に突然町を襲った。 昭和21年、町に隣接する日出生台(ひじゅうだい)演習場跡が連合国に接収され進駐軍の演習場になった。 由布院駅から演習場への道路の拡幅や、兵舎建設のため多くの人夫が集められ、由布院駅界隈は工事関係者が溢れ、異常な賑わいをみせていた。 当時は、配給制のため食料品や日用品等が不足し、闇物資が出回るなど物価が高騰した。 また入れ替わり演習に来る進駐軍兵士相手の売春婦(俗に言うパンパン)が、別府や北九州から数多く流れ込んできた。(最盛期には700人もいたとされる) 派手な服装に厚化粧の彼女たちが昼間から進駐軍兵士と腕を組み街中で戯れる姿に、村人は眉を顰め、青少年に少なからぬ悪影響を及ぼした。 さらに配給制度のもと、物資が乏しく苦しい生活だった町民に比べ、進駐軍は衣料・タバコ・チョコレート等、豊富だった。 それらが兵士から売春婦を通じて町に流出し、これに群がる悪徳商人やドル買いが横行し、ついには殺人事件にまで発展する事態となり、村の素朴な民情は一変した。 朝鮮戦争の終結とともに、進駐軍兵士や売春婦がいなくなり、漸く平静を取り戻しかけた昭和27年、伝説の湖を夢見るかのような、「由布院盆地ダム化」問題が、忽然と持ち上がった。 住民の賛成・反対の意見が対立し、町中で論争が繰り広げられ、大騒ぎになった。 小生は小学生だったが、賛成・反対に分かれて論争(?)した記憶がある。 しかしこの問題は、青年層・農民団体・電力会社の強力な反対と資金の行き詰まりから、立ち消えとなった。 これに代わって登場したのが自衛隊誘致運動である。 隣町の玖珠(くす)町が、日出生台演習場に関連した自衛隊誘致に力をいれていることが判明したことで火が付いた。 由布院町も町長を中心に、議会、商工会・農業団体等が一体となり、猛烈な誘致運動を開始した。 だがそのうち、先鞭をつけた玖珠町にほぼ内定との情報が伝わってきた。 そこで一発逆転を狙う町長は、議会議長・商工会長・農協長と協議した結果、誘致条件にプレミアムを付けて陳情することにした。 @ 役場が敷地面積30fを確保する A土地の買収は町役場が受け持ち、(自衛隊予算の)不足分は町が負担する B水5千tの水利権確保と、排水処理は町役場が受け持つ C(防衛庁が要求する)農協・郵便局以外の(一般)金融機関も誘致する 昭和29年12月29日、駐屯地を由布院町とする決定の報が、町役場に届いた。 由布院町が誘致に力を入れたのは、次の意義・狙いがあったとされる。 @規律正しい自衛隊の気風・若い力により、退廃した町のイメージを一新 A由布院の優れた自然環境の保全に自衛隊の環境整備事業の協力を得る B社会体育の普及、青少年の健全育成に協力を得る C観光の町由布院と自衛隊の町由布院は両立し得る 現代の自衛隊誘致が、過疎対策であり、災害対策が意義・狙いと聞くが、湯布院の場合は素朴な熱意と、町の戦後史の辛さを反映したものと理解した。 しかしながら湯布院町の場合、駐屯地建設段階になると、町が提示した条件の実行は難しかった。 それでも、町長岩男頴一氏の人徳と熱意、並柳地区の右田喜由氏の理解ある協力により、4万8千坪の用地が確保でき、水5千tの水源地は衛藤新一氏の好意により解決したとされる。 岩尾氏はその後、町長を5期、更に参議院議員に選出された。 町民支持の厚さが窺えよう。 こうして昭和31年1月、自衛隊駐屯地が開設され、4月に湯布院駐屯地開隊式が挙行された。 これが、私の記憶、関係者への聞き取り、町史を元にした誕生の秘話である。 現在の主要駐屯部隊 ・ 西部方面特科隊。 隷下に第5地対艦ミサイル連隊を擁し、西部方面隊の対地・対艦火力の骨幹として、 縦深火力の戦闘を役割としている。 ・ 第5施設団(小郡)隷下の第103施設直接支援大隊第一直接支援中隊湯布院派遣隊及び第368施設中隊 ・ 湯布院駐屯地業務隊。駐屯地業務のほか、日出生台(ひじゅうだい)演習場の管理を担当。 ・ 第394会計隊・第304基地通信隊湯布院派遣隊・第134地区警務隊連絡班 ※日出生台演習場。 駐屯地の北西、由布市・九重町・玖珠町にまたがる東西16q、南北5q 面積およそ 5千万uを有し、年間訓練日数は、340日、約30万人が使用する西日本最大の演習場。 主要な活動 訓練 火砲・ロケットの実射訓練のほか,地対艦ミサイル部隊の指揮・統制訓練や火力調整訓練を実施している。 海外派遣 ・ 国際平和維持活動第4次東ティモール派遣施設群 ・ 国際救援活動第5次ハイチ国際救援隊 ・ 国際平和維持活動第4次南スーダン派遣施設群 災害派遣 ・ 最近では平成24年7月、九州北部豪雨災害に際し、竹田市に災害派遣を実施した。 地域住民との交流 記念日等には、駐屯地を開放し、装備品・模擬戦の展示、戦車・装輪車の試乗等を実施し、温泉まつり・山開き等の町主催行事には、音楽隊の派遣や隊員参加を奨励するなど、積極的な交流が行われている。 他の駐屯地に見られない自慢二題 第一の自慢は、湯布院駐屯地に昭和天皇皇后両陛下がお越しになられたことである。 昭和41年秋の大分国体では、駐屯地グランドがホッケー会場となり、御観覧のため両陛下にご訪問を頂いた。 当日は、湯布院・玖珠両駐屯地の隊員約580名が正門から町内にかけて「と列」を実施するとともに、選抜され、1ヵ月もの猛特訓を受けた特別警衛隊の着剣捧げ銃による厳粛な奉送迎を行った。 またご観覧に際し、駐屯地隊員はホッケー会場の運営・支援を献身的に実施し、御観覧の接遇等を完璧に遂行したことは大きな誇りであり、それを正門に「行幸啓記念碑」として残している。 さらに、会場でお座りになられた玉座を、駐屯地広報館に当時のまま保存している。 今一つの自慢は、数ある自衛隊駐屯地の中でも珍しく敷地内に二つの源泉を持ち、露天風呂や足湯もあることだ。 だが取材子の訪問時は、ポンプの故障で利用できなかった。 ボイラーで風呂を沸かしたのだろうか。 ところで、この源泉のボーリング費用については、駐屯地建設の際、防衛庁が予算を計上し、大蔵省が認めたという記録はない。 だとすれば、駐屯地誘致の際の地元湯布院町が負担(サービス)したのかもしれない。取材子の素朴な疑問であるが、今となっては、友人や業者に聞いても、知る人はいなかった。 おわりに 折角の機会と張り切って町史を紐解き、当時の関係者や同級生に面談を重ねたにもかかわらず、取材要領未熟のため、各位のご意図を十分に忖度できなかったことをお詫びします。 また、資料の準備・案内等にご協力頂いた広報班長はじめ、広報班の方々に厚く御礼申し上げます。 「自衛隊の町・湯布院」と「湯の町・湯布院」が今後とも互いに連携を保ちつつ、増々の発展を遂げることを、元町民の一人として見守り続けていきたいと思っております。 (偕行「駐屯地紹介シリーズ」から転載 喜田君提供 一部修正)
|
おらが湯布院駐屯地