はじめに 私は昭和42年に幹部候補生学校を卒業し、第7師団、装甲輸送隊勤務を拝命した。 北海道は初めてで、津軽海峡を連絡船で渡り、これから始まる新しい任務・生活への期待と希望に燃えて千歳駅に降り立った。 まだ航空機で赴任するという時代ではなかった。 駅前から見た風景は、横須賀(防大)や久留米(幹候校)で見慣れた街並みとは、少々違っていた。 両側に歩道のある広い道路が真っ直ぐに西へ向かって延びており、両側には、木造の建物が連なっているが、どこか閑散としていた。 いつか映画で見た西部の街を連想し、「これが北海道か!」「いよいよ来たな」という驚きと感動があった。 初めての「部隊勤務」に向かう、緊張感と熱き意気込みは、北海道の3月の冷たい風をものともせず、勇躍、東千歳駐屯地へと向かった。 今回、「駐屯地紹介の取材」という任務を携え、羽田から新千歳空港を経て、47年ぶりに3月の千歳駅に降り立った。 駅頭から見る景色は、がらりと変わり、中層のビルが出現し、車両の往来が激増した。 約半世紀もたったのだから当然と言えば当然のことではあるが、まさに隔世の感を抱きつつ、北千歳駐屯地に向かった。 あの時の東千歳駐屯地とは、市街地を隔てて約8qばかり離れている。 千歳市について この地はアイヌ語の「シ・コツ」(大きなくぼ地)といったところで、その語音が「死骨」に通じて不吉なので、文化2年(1805年)箱館奉行羽太正養が、この地方が鶴の生息地であったところから「千歳」と名付けたと伝えられる。 明治13年千歳戸長役場開設、昭和33年市制施行・千歳市となり、今年で開基134年を迎える。 人口は約9万5千人(平成25年10月1日)、昭和45年に5万6千人だった人口が、この43年間で66%も増加している。 過疎化と、人口減少が続く北海道の中小都市の中にあって、驚異的な増加である。 その大きな要因は、札幌のベッドタウン化、「空港」の拡大と発展、そして自衛隊の存在にある。 空港を持つ都市 大正15年、村民の無償労力の提供で着陸場が整備され(千歳飛行場の前身)、10月に小樽新聞社の飛行機(北海一号)が初めて着陸した。 昭和14年11月、海軍航空隊が移駐し、着陸場は海軍の飛行場となる。 昭和20年、今度は連合国軍に接収され、34年に防衛庁・航空自衛隊に返還された。 昭和26年に民間航空が再開、千歳〜羽田間に営業飛行がはじまったが、冷戦が活発化する中で航空管制権は米軍から空自に引き継がれ、滑走路は空自(第2航空団)と民間の共用とされた。 そのためスクランブルの際は、民間航空機が、地上で、または上空で待機することを余儀なくされた。 昭和63年、約4q南に滑走路が新設され、ここに現在の新千歳空港A滑走路が開業した。 これにより、発着の利便性は格段に向上し、国内線利用者は、年間千6百万人を超え(平成24年)、羽田・成田空港についで3番目の数となった。 特に羽田〜千歳線の利用者数は世界一とか。 なお、天皇陛下が外国訪問の際に用いられる政府専用機は、千歳基地で整備・保管がなされている。 自衛隊の存在 千歳市にある主要な駐屯地・基地は第1特科団が所在する「北千歳駐屯地」、第7師団司令部とその主力が駐屯する「東千歳駐屯地」、航空自衛隊の北部方面航空隊第2航空団が所在する「千歳航空基地」である。 陸・空自衛官の数は約9千名、これに隊員家族・OB等を含めると、防衛省関係者の総数は、2万数千名となり、千歳市の人口の約26%を占めるといわれている。 千歳市民の平均年齢は、41.3歳(平成22年国勢調査)と北海道の市町村では一番若い。 これは、陸・空の若い隊員が多いことによる。 隊員が英気を養う千歳の街 駐屯地・基地には、隊内クラブがあって飲酒もできるが、私服でリラックスしたいと思うのは人の情であろう。 そんな隊員を待っている「飲み屋」が、市内に600〜700軒はあるらしい。 先の東日本大震災では部隊の大半が災害派遣に出動し、長期に及んだため、客足が激減し、何軒かの店が閉店を余儀なくされたという。 自衛隊の街ならではの逸話であろう。 千歳市会議員に自衛隊OBが7名 現在、自衛隊OB7名が千歳市会議員であり、自衛隊と自治体、隊員と市民の懸け橋として活躍し、部隊の任務遂行と、隊員の生活の安定に御尽力していることは、誠に得難いことである。 今後とも、現役・OBが連携し、自衛隊の任務遂行、市の発展、市民生活の安寧のために、協力されるよう切に望むものである。 また、基地・駐屯地が所在する街には、基地対策周辺事業費等が交付されており、大規模駐屯地や戦闘機の基地を抱える千歳市には相当規模の関係費が支払われていると思われるが、市の中心部に大規模地下駐車場があり、災害対応の拠点としての機能も備えていると伝えられている。 北千歳駐屯地 さて、やって来た「北千歳駐屯地」は、千歳市の北西、千歳空港から約10km、札幌から約40km、国道36号線(かって弾丸道路と呼ばれていた)の西側に、北海道大演習場に隣接して所在している。 千歳市で最初に創設されたが、昭和29年に第7師団が東千歳駐屯地に創設されることになった。 そこでこの駐屯地は「北千歳」と改称され、その後、方面隊直轄の特科団のホームグラウンドになった。 一つの市に二つの大規模部隊が存在することから、北千歳駐屯地・第1特科団は警備隊区を持たず、北部方面隊の総予備としての役割と、近傍災害への対処に当たっている。 所在部隊 ・ 第1特科団 道内5個駐屯地に分散配置された、3個地対艦ミサイル連隊、2個特科群、1個観測中隊を指揮し 方面隊の対地・対海上火力の骨幹として、縦深にわたる火力戦闘を役割としている。 ・ 第1地対艦ミサイル連隊 地対艦誘導弾(SSM)を装備 ・ 第1特科群 第102特科大隊 203ミリ自走榴弾砲を装備 第129特科大隊 自走多連装ロケットシステムを装備 ・ 第71戦車連隊(第7機甲師団の隷下) 90式戦車を装備 ・ 第101特科直接支援大隊・第302高射中隊等 ・ 駐屯地業務隊等 司令表敬 戦闘服姿の梶原直樹団長を表敬。 見るからに若々しく、穏やかな物腰、爽やかな笑顔に接し、当方の緊張もほぐれた次第。 隷下部隊が、広い北海道の5か所に分散配置されていることについて、指揮掌握、指導等のご苦労をお伺いしたところ、「副団長と分担して実施している」と事もなげに答えられた。 副団長並びに、部下指揮官との良好な信頼関係が確立されているものと確信した。 先の東日本大震災の災害派遣では、大多数の国民から絶大な信頼と賞賛を受け、また部隊も隊員も大きな誇りと自信を得たとのこと。 駐屯地の「ご自慢」をお伺いしたところ「食事がおいしい」「駐屯地がきれいである。」と即座にお答えいただいた。 訓練の特色 北海道大演習場に隣接しているので一般の訓練の環境は申し分ない。 だが、こと火砲の射撃となるとなかなか大変なようで、射程の増大化に伴い20HSPの実弾射撃は、矢臼別演習場まで足を延ばさねばならない。 さらに地対艦誘導弾(SSM)は、国内では実施できず、米国での訓練となる。 訓練錬度の維持・強化には、カネと時間をかけざるを得まい。
東日本大震災災害派遣 東日本大震災には、約千700名の隊員を2か月にわたり現地に派遣し、ご遺体の搬送、救援物資等の輸送、行方不明者の捜索、瓦礫の処理及び給水・給食等民生支援を担当した。 派遣隊員が長期にわたり活躍した陰には、平成24年11月9日、千歳市との間に「家族支援に係る協定」が結ばれている。 自治体が支援する内容は、@ 部隊内臨時託児施設の設置、A 託児サポート制度利用の仲介、B 介護サービスを受けるための支援、C 留守家族への健康・医療に関する相談である。 この協定締結は、全国に広がりを見せつつあるが、自衛官OB議員の仲介・活躍に負うところが大であるようだ。 地域住民との交流 「東千歳駐屯地」が後にできたことから、市民は元祖の「北千歳駐屯地」を親しみを込めて「北部隊」と呼ぶようになったが、記念行事・夏まつりには多くの市民が、駐屯地を訪れる。 また、団音楽隊と地域中学校との合同コンサートで市民を魅了している。 さらに市の夏まつり(主会場の提灯飾り付けは東千歳・2空団と共同作業)市内清掃、除雪、支笏湖復興の森造り支援、音楽演奏等々実に活発な交流が行われている。 駐屯地の自慢 @ 「食事がおいしい」 表敬の際に司令も申されたが、「平成25年度北部方面隊給食格付け」において、大規模駐屯地の部で第一位を獲得している。 これは、年2回にわたり、営内者を対象に「献立の組み合わせ・味付け・料理の盛り付け等」34項目についてアンケートを実施した結果である。 A 「きれいな駐屯地」 北千歳駐屯地では、司令を始め、各部隊長指導と、隊員と駐屯地OB会の共同で、植樹・樹木の手入れ等を実施して、非常にきれいに整備されていた。 また年末には、曹友会が、厚生センター玄関にイルミネーションを実施して、きれいな駐屯地に華を添えているとのことである。
おわりに 実は今回の取材のための渡道予定の朝、荒天のため新千歳空港の発着が、困難になる恐れがあるとの予報を聞き、早とちりして、予約便をキャンセルしてしまい、関係者に多大なご迷惑をおかけしたことをお詫び申し上げます。 表敬日の変更にあたり、司令には、特段のご配慮を頂き、誠に恐縮いたすとともに感謝申しあげます。 また第1特科団の皆様には、大変お世話になりました。 厚く御礼申し上げます。 (偕行「駐屯地紹介シリーズ」から転載 喜田君提供 一部修正)
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北千歳駐屯地訪問記
幸田 武生君
7区隊