昭和45年に結婚して以降、宿舎事情には概ね恵まれて約20年、いわゆる官舎に住ませていただいた。 官舎のほとんどは、4階または5階建ての集合住宅で間取りは、2DK〜3LDKであった。 定年の数年前に終の棲家として購入した、現在住んでいる住宅(マンション)も3LDKである。(一人暮らしとなった今では少々広すぎる気もしないでもないが・・・) 官舎もそうだったけれど、自宅にも床の間なるものはない。 限られたスペースを有効に活用するためには床の間など設ける余地はないというのが実情であろうか。 そんな状況ながら、小生、「掛け軸」二幅を所持している。転勤、転居のたびに、取扱いに苦慮しながらも持ち歩き、今も押入れの片隅に保管している。 実は、この掛け軸「松井石根大将が少将のころにご揮毫頂いた」ものなのです。 40数年前、生前の父親から聞いた話と長兄が書き遺した「自分史」によればその経緯は概ね次のようである。 大正13年秋、当時、福岡の歩兵第35旅団長の松井石根少将が、日出生台演習場に来場され、期間中、演習場隣接の小野原という小集落にあった幸田の家の座敷に宿泊されたとのことである。 旅団長が、民泊されるという軍の事情は知る由もないが、幸田の家が選ばれたわけは、祖父(当時51歳)が森町町議だったこと、その祖父が、日出生台陸軍演習場主管の横田穣氏と親交があった故かと思われる。 父は、当時28歳、書や掛軸等にそれなりの関心があったらしく、少将は「陸軍きっての能書家」と伝え聞き、是非ともご揮毫頂きたいと、副官を通じてお願い申し上げたところ快諾をいただき、さらに「演習場ゆえ、用具を持ち合わせていないので、横田に借用して来るがよい」とのこと。横田氏に筆等一式拝借するとともに、同氏のご教示を得て、最上級の絹本を2枚買い求めご揮毫頂いたのが写真の二幅である。 写真左の「舞鶴城主人」という署名の下方に松井という小判型の認印が押印されている。右のほうには「甲子秋日 松井少将」と署名がある。 「少将」といえば、当時、最高級のステイタス。片田舎日出生台の村民にとってはまさに雲上人、そのお方が自分の家に宿泊されたこと、さらに書幅までご揮毫頂いたことが相当の自慢でもあり誇りでもあったのだろうか「嬉しゅうてのう!」と父は当時を振り返るように目を細めた。 しかしそのあと「大将に昇進されたとはいえ、戦犯で死刑になってしもうたから、大っぴらには出来ん。」と一瞬寂しそうな顔をしたが、思い直したように「これを、お前に遣ろう。将来、家を建てたら掲げることもできよう。」ということで左の掛け軸を貰い受けた。父の没後、唯一の形見として、右の掛け軸を兄から譲り受けた。 表装は改めたが掛ける床の間もなく押入れに保管しているこの由緒ある掛け軸、今後どうしたものかと、思案している次第である。 愚息は、掛け軸などに関心はなさそうだし、最近取得したマイホームにも掛ける余地もない。 遺品として申し送っても、邪魔物扱いされるくらいなら、いっそのこと小生抱いて棺桶に入り、あちらで父と鑑賞しようかと・・・ しかしその前に、先人の希少な遺墨を、関心のある方々に御覧いただくのも一義あるかと思い、紹介を兼ねて拙文をしたためた次第である。 ※本稿起草にあたり、陸自57大東信祐様に松井少将に係る資料とご教示を頂きました。 ここに厚くお礼申し上げます。
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幸田 武生君
7区隊
掛け軸