1.前 書
 平成16年11月24日から30日まで寺島団長以下25名で台湾研修旅行を行った。今回は台北、台中、台南、高雄に行き花蓮に飛んで台北に帰るという台湾を一周する計画で空軍軍官学校や花蓮の空軍の基地、高速道路を滑走路にして使う軍の状況を見ること、また、寶覚寺、飛虎将軍廟、高砂義勇軍戦士の慰霊塔、中烈詞等を訪れ前の大戦、および中京軍との戦いで亡くなった日本人、台湾人の慰霊を行うこと、蒋介石祈念堂、日月潭、故宮等の台湾の歴史や文化等の研修をすること、また交流協会や輔導委員会を訪れその活動状況と日本との関係を研修することが主要な目的であった。

私(嶋野)の家族は父が官僚で昭和7年に台湾に赴任してから姉弟全員が台湾生まれで戦後の昭和21年春に帰国した。父は米を集めて内地に送ることが仕事で新竹市の旭町や赤土崎に住んでいた。父が撮った写真を何枚も見たことがあり、とても田舎で農家というイメージを持っていたので、今回台湾がどんな所か知りたいととても興味があった。私の今回の研修で受けた印象は世界でも有数の近代的な都市に発展し、極めて親日的である、しかし常に中国の軍事的政治的圧力を受けて、国内では国民党と民進党が激烈な戦いをして独立派と中国との共存派が総統の地位と議員の勢力を争う緊張した国という印象を持った。今回のメンバーは神主さんがいたり旧軍のときに台湾に来た人がいたり、学校の校長先生の経験者が3人もいたりわが郷友のメンバーは当然として素晴らしい仲間と楽しく有意義な研修を行うことが出来た。今回常務理事の元陸上自衛隊航空学校長冨田稔元将補が研修員として参加し旅行記を書いていただいたのでそれを主にして、元小学校の校長先生の下釜さんの所見を交えて報告する。

2.成田から台北へ
 11月24日、1000時過ぎ成田発、台北に向け出発。離陸後まもなく昼食が出る。ワインを飲み一眠り。1245過ぎに「降下開始・シートベルト着用」の放送で目覚める。時差1時間を修正、しばらく雲中降下を続けた後、雲を抜けると台湾の海岸線と沿岸部の人家の散在する丘陵地帯が目に入り、既に着陸態勢に入っていた。台北に隣接する桃園の中正国際空港に1230ころ、無事着陸した。台北には台北市から約40キロ離れた桃園にある中正国際空港と台北市郊外にある国内便中心の松山空港があり、日本成田と羽田の関係に似ている。

3、空港での出会い
 空港では除退役官兵輔導委員会の劉建華科長(元空軍中佐)が出迎えてくれた。今回の台湾公式訪問の調整をしてくれ重要なところは同行してくれる人物である。流暢とはいえないが、普通に日本語で会話が出来る。成田以外から日本を出国した参加者を待つ間、空港内売店を散策。売店入り口の一角に日本の当日の朝刊が並んでいた。現地の若者向けの雑誌の表紙に中森明菜の写真を見つけた。よく見るとスマップの写真もあり、日本に対する親しみがあるように感じた。 全員がそろい現地ガイドの日朋旅行社の簡添宋氏の案内でバスで移動する。彼も空軍パイロット出身で以前にも郷友連盟の研修のガイドをしたことがあるとの事で何人かとは顔なじみであった。大変台湾事情、特に軍のことに詳しく日本語も上手で郷友連盟のガイドとして最適の人物であった。軍の話になると熱が入り、金門島の話し等では大軍を有する大陸の軍隊から島を守ったことを誇らしげに話していた。

4.バスの車窓から台北を傍観
 空港からバスに乗り込み、いよいよ、最高齢87歳の萩田さんを筆頭に80代3人を含む平均年齢60歳後半で構成された26名のツアーが始まった。空港を出発したバスは間もなく高速道路に入った。高速道路は6車線から8車線で日本より広く台北から高雄までほぼ一直線である。全長約370キロで高速道路上に5箇所滑走路になるところがあるとの事であった。また日本が作っている新幹線も工事中のところ、出来上がっているころを垣間見ることが出来た。台北から高雄まで17年の10月には完成するとの事であった。バスの窓からの眺めは日本の都市の郊外の町並みと大きな相違は感じない。台北の町は海と山に挟まれた平地に高層のビルが立ち並ぶ大きな町で台北県360万人のうち280万人が台北市に住んでいる。508メートルの世界一の超高層ビル等大きな建物が目に付く。都市の街角には必ずといってよいほどセブンイレブンがあり、ほとんど日本のコンビニと似ていた。ビールはおおむね日本の半値に近く、おにぎり1個60円くらいで物価は安いと感じた。タクシーは黄色に統一されており約8割がトヨタ社製であり、残りを日産、ホンダ、三菱、欧米車で分け合っているという感じであった。台北にはタクシーが8万台ありマイカーは13万台との事であった。オートバイはヤマハの小型車が多く広い道にはオートバイ専用車線があり。オフィスビルに面した歩道にはオートバイが整然と駐車されていた。車は「汽車」、オートバイは「機車」、町外れには何処に行っても「機車・汽車修理」等の看板が目に付く。また「服務」という字がやたらと目に付く。サービスという意味だそうで「服務中心」は「サービスセンター」「服務站」はサービスステーションという意味だそうである。テレビもNHKは見れるし番組も日本のコピーのようなものが多く見られた。電気は110ボルトで日本の物がそのまま使えた。

5.日本交流協会台北事務所訪問
  長野元調査学校長の出迎えを受け、寺島団長及び本部理事3名(嶋野、八木、富田)が内田所長(実質的には大使)の部屋で挨拶・歓談をした。歓談の後、団長の臨機のお願いで別室に待機していた参加者全員に対して内田所長からお話をして頂いた。次に長野氏から日台関係の複雑さと交流協会の組織・役割についてブリ−フィングして頂いた。日本交流協会は台湾との実務関係を処理するため1972年に外務省及び通産省(現経済産業省)により認可された団体で東京本部のほか、台北、高雄事務所がある。我々の訪問した台北事務所は、現地雇用者を含め100人規模の事務所で実質的には大使館の役割を果たしている。内田所長は元カナダ大使で防衛庁にも出向したことがあり寺島団長とも旧知の方であった。また長野氏は元調査学校長、中国の防衛駐在官で、一昨年に日台関係を発展させるために初代駐台武官ともいうべき役割で勤務しており今回の研修の調整に多くの協力をして頂いた。

6.寶覚寺における慰霊
  台北から南に約140キロの台中に寶覚寺がある。ここには霊安故郷英魂碑(李登輝総統の筆による)があり日本の国難に若き命を捧げて散華された3万3千余柱の元日本軍人軍属台湾同胞戦没者の御霊が祀られている。11月25日たまたまスケジュールが重なり台日海交会の合同慰霊祭があり、我々の慰霊祭は合同慰霊祭の後、福岡郷友会の堀川神職(剣道、居合道、弓道8段の武道家であり神官、84歳)により行われた。李登輝総統になってからこのような慰霊祭を行えるようになったとの事であった。異国の地に骨を埋めた先達を思うとともに、日本統治以来の日本人とのつながりを大切にする台湾の人々の思いに胸を熱くさせられた。毎日慰霊碑の回りを掃除してくれているという婦人、軍歌を日本人と一緒に歌う台湾の人たちに親日感を感じた。下釜さんの感想(台中での慰霊祭では「海ゆかば」を台湾の人と合唱し、当時を思い出し、涙があふれ、声がつまりうまく歌えませんでした。) 

7.飛虎将軍廟

  台南市の北西5キロの郊外に飛虎将軍廟がある。太平洋戦争中台南上空の空中戦で、壮烈な戦士を遂げた日本海軍飛行隊杉浦茂峰少尉(当時兵曹長)が神として祭られている。終戦近くアメリカ軍がフィリッピン攻略作戦の前哨戦として台湾各地で航空作戦を行った。日本軍は勇敢に戦ったが数的に優勢なアメリカ軍に多くの飛行機が撃墜された。その中で1機、敵弾を受けて今にも爆発しそうな日本軍機が台南の大部落目指し撃墜しかけていた。しかし、杉浦少尉は、自分が脱出するよりも、村のことを考え軍機の機首を再び上げ大部落のはずれ、田畑が広がる地域へ軍機を飛ばし戦士した。戦争後町の人が戦争中に自分の命と引き換えに部落を守ったこのパイロットの御霊を慰めるため、小さな「祠」を作った。1993年朝皇宮管理委員会により当時4坪しかなかった祠が50坪の台湾風のきらびやかな廟に生まれ変わった。ここでは朝夕2回、午前は「君が代」、午後は「海ゆかば」を厳粛に歌い供物を捧げてお祈りをしている。下釜さんの感想(夜遅く着いた台南の飛虎将軍廟での秘話を聞き、杉浦少尉の心を今なお現地の方々が大切にしてくださっていることに胸が熱くなりました。)

8.空軍軍官学校訪問及び防空能力
  空軍軍官学校は台南市から約15キロ南にあり我々の訪問には輔導委員会の劉建華科長も同行した。校長自らブリーフィングに始まり記念館、航空機の展示場まで終止案内していただき、極めて丁重な扱いを受けた。学校の内容は一般大学+軍人としての素養を4年間で育てる。文武両道の軍人養成が目標である。パイロットは4年で教育を終了し、少尉任官後引き続き16ヶ月の飛行訓練を行うそうである。最近の若者は視力が落ちパイロット要員の確保が大変で視力の基準引き下げを検討中との事であった。職員は約1700名、航空機T−4練習機×30機の他、米国製のAT−4、国産のAT−34を保有している。空軍の歴史博物館は我が国のものに比し大規模で、屋内には辛亥革命以来の各時代の航空機とその戦いの様相が事細かに展開されている。国を挙げて民国93年の歴史を大切にしている様子が覗えた。
 防空能力についてはF−16を約300機保有し各機を掩体壕に格納し、かつ高速道路に五箇所も滑走路を作っている臨戦態勢を整えている状況を各地で見ることが出来た。特に花蓮の空軍基地は大理石の高い山に囲まれた地域に戦闘機を配備していて高射火器と合わせて防空体制は充実していると感じた。

9.退除役官兵輔導委員会の訪問
 この委員会は政府機関として年間4000億円にも上る予算をつけて除退役後の援護業務を国家が行っているもので、主任委員は行政委員の閣議にも列席する元軍人の高官(現在は高元中将)が補職されている。この委員会の主要な業務は大陸より移動してきた将兵が、時代の経過で高齢化し除隊するに及び、その社会復帰をさせるためのものである。大陸から70万にも及ぶ将兵は地元の台湾本島に身寄りもないことから、退役後の援護業務を国家が行った。この委員会は本人及び家族のための職業補導のほか国家的な各種事業を行っている。

 ア.厚生部門では、各地に養老院を設置運営するほか台北に近代的な大中央病院と各地に病院を運営、更に恩給業務等。
 イ.建設部門では、中央横断公路、ダム建設、縦貫高速公路、各種港湾建設等
 ウ.産業部門では、鉄路弘済会、バス運営、産地果樹園、漁業等を行っている。

10.輔導委員会との交流
 我が郷友連盟と輔導委員会との交流は昭和40年に始まりこれまで昭和46年、47年、平成3年、5年、7年、年、と研修団が訪れ、昭和50年の郷友連盟の20周年記念大会には輔導委員会から名が参加した。今回の研修でも高主任委員と寺島会長がお互いに友好の言葉を交わし更なる友好を深めた。懇親会では呉元中将はじめ多くのメンバーが参加していただいた。特に最後の昼食会は輔導委員会の主催でおいしい中華料理を食べながら「乾杯」「随意」とお互いにいいながら酒を一緒に飲み、カラオケで日本の歌を一緒に歌ったり、心から交流が出来たように思えた。下釜さんの感想(最後の昼食会は輔導委員会の方々と一緒にカラオケで日本の歌を歌い楽しい旅行を盛り上げてくれました。)

11.高砂義勇戦士の慰霊
 第2次大戦初期1941−1945年日本政府は台湾の原住民である勇敢な高砂族を義勇隊員として高砂義勇隊を組織した。高砂義勇隊は2万人以上も動員されたがそのなか、1万数千人の隊員が南方派遣軍として戦地に赴いた。戦地のインドネシア、フィリッピン、マレーシア等の熱帯地、特に山岳のジャングル地帯は高砂義勇隊員には恵まれた体と環境に適して日本のために勇敢に戦った。しかし厳しい戦が続き終戦時生き残ったのは3分の1で多くが戦死した。台北からバスで40分くらいのところに鳥来という観光地がありそこに慰霊碑があった。現在は高砂族の子孫が観光地で土産店を経営しながら碑を守っている。下釜さんの感想(慰霊塔は白い滝が見えるとても景色のよい高台にありました。堀川さんのお祈りにあわせてみんなでお祈りしました。そこで、本田雅春遺詠の「かくありて許さるべきや密林に かなたに消えし 戦友を思えば」の鎮魂歌が目に留まりました。逝った人、残った人の様が目に浮かびます。お参りするたびに感じたことですが、何処もきれいに手入れされ、大切にされているということです。ガイドさんをはじめ台湾の人たちがとても友好的な態度で接してくれました)

12.まとめ
 今回の研修では上記のほか忠列祠、故宮博物館、蒋介石祈念堂等も訪れたが先に述べた寶覚寺や飛虎将軍廟での慰霊などとも合わせて台湾の人々が歴史を大切にし、戦いに散華した戦士を丁重に祀っていることに深い感銘を覚えた。翻ってわが国の靖国神社や護国寺に対する対応はこれで良いのかと深く反省させられた。研修期間中は国会議員の選挙戦の最中であり民進党と国民党が激しく選挙活動を展開していた。台湾の人々の多くは「中華人民共和国との統一」には反対だが、同時に「台湾独立」の動きに対しても、中国からの武力攻撃を招じかねないと危機感を有しているように感じられた。経済発展のためにも中国との関係を強化せざるを得ず、反面政治的には一線を画したい台湾のジレンマを肌で感じた。対日感情はすこぶる良く、また古き良き日本の風習も随所に残っており研修期間を通じて不快な思いをしたことは全くなかった。これも李登輝総統時代から親日政策の改善の賜物と思われる。ただ戦後蒋介石総統の政策により学校で中国語以外を学ぶことを禁じたので、現在の日本語を話せる人、台湾語のみを話す人、中国語のみを話す人が混在しており、かなり複雑であると感じた。今後は日本語を話せる人は減ってゆくのみであり、東アジアの平和と安寧のためには日本と台湾の関係を強めることがより重要であろうと認識を強くした。

                          
              



 嶋 野 隆 夫
 平成17124