隊友ふれあいウォ−キング
世田谷の史跡を訪ねて

 今回は世田谷区の史跡を訪ねました。
世田谷区には、多くの歴史的・文化的遺産が有りますが、特に区政の中枢機関が集中する世田谷地域は、室町時代には吉良氏の城下町であり、又江戸時代には井伊家の支配下に置かれて居ただけに数多くの史跡が残っています。

 田園都市線「三軒茶屋駅」を出発、先ず大山道標へ、大山道は丹沢山地(秦野)にある大山阿夫利神社に参詣する人々が通った道です。江戸時代後期から、大山詣が盛んになり白装束・菅笠の人々で賑いました。 三軒茶屋の分岐点付近に当時三軒の茶屋が在ったことが地名の由来です。

        

 次に、松陰神社を訪ねました。
幕末の尊王論者吉田松陰は、安政2年(1855)再来したペリーの船で、アメリカ渡航を企てて失敗し、捕らえられ国元の萩に送られ、3年間野山獄につながれました。その後、一時許されて萩に松下村塾を開き、高杉晋作・久坂玄瑞等数多くの門人を育てましたが、安政5年の大獄で小伝馬町の牢につながれ、翌6年処刑されました。(享年年29歳)
松陰の刑死後、数日して長州藩士伊藤俊輔(博文)等は、同地回向院の橋本左内の墓畔に碑を建てて遺体を葬りましたが、幕府により志士の墓碑と共に撤去されました。文久3年(1863)高杉・久坂・伊藤等は、これを荏原郡若林村の毛利家抱屋敷内に移し葬りました。 明治15年門弟等により墓の東側に社殿が建てられ、これが松陰神社の起こりとなりました。

        

 松陰神社に参拝後、大渓山豪徳寺に向いました。
豪徳寺は世田谷城址の西側丘続きに位置し、元は城中の小庵で弘徳院と云い、文明12年(1480)吉良政忠が、伯母の弘徳院殿久栄理椿大姉の為に建てたもので、その法号にちなんで名付けられました。開山は臨済僧馬堂昌誉で、天正12年(1584)門庵宗関の時、曹洞宗に改めました。三世雪岑の時、井伊直孝が大檀那となり、殿舎堂閣の新設や修復を行い、直孝がここに葬られてから、その法号久昌院殿豪徳天英大居士から、弘と豪が相通ずるとして、豪徳寺と寺号を改め、以後井伊家の菩提寺として、江戸で亡くなった者をここに葬りました。
境内左奥に井伊直弼の墓(都史跡)が有りますが、墓石に何故か「万延元年閏三月二十八日没」と刻まれています。 「安政の大獄」の断行で恨みを買い、水戸浪士等により桜田門外で暗殺されたのが、万延元年(1860)三月三日です。 幕府は、この事実を隠したまま閏三月二十九日に嫡子直憲の家督相続を許可し、翌三十日に井伊直弼の死を発表しています。今回、残念ながら井伊直弼の墓は修復中で見られませんでした。

        

 次に豪徳寺を出て、世田谷城址(都旧跡)に向いました。 
世田谷城は、南北朝時代に関東管領・足利基氏から世田谷領を拝領した吉良治家が築城、以後吉良氏は八代二百数十年間居城しました。
吉良氏は、足利一門において名門中の名門とされ、分家今川氏とともに足利将軍家の連枝としての家格を有していました。吉良氏の興りは、鎌倉時代に足利義氏の庶長子・長氏及び四男・義継が三河国吉良荘を本拠とし、「吉良」を名乗ったことに始まります。
以後、長男の家系は三河吉良氏として活躍しますが、同族争いから次第に衰退しました。
江戸時代に入り、義弥の代に徳川氏に取り立てられ、高家筆頭の家格を付与され、江戸幕府の儀典関係を取り仕切る家として存続しますが、義弥の孫義央が元禄赤穂事件により殺害された上、騒動の責任を問われ当主義周が改易に遭いました。一方、四男義継の家系は、奥州管領となり足利政権の奥州統治の要として活躍しますが、同族争い等により次第に勢力を失い衰退の一途を辿りました。滅亡の危機に瀕した奥州吉良氏でしたが、関東管領・足利基氏から招かれた五代目治家が上野国飽間郷及び武蔵国世田谷郷を拝領し、世田谷城を構え土着しました。 

 世田谷城址を見学後、世田谷八幡宮を経て世田谷代官屋敷に向いました。
ここは江戸時代に彦根藩世田谷領の代官を世襲した大場家の住居です。大場氏は、元世田谷城主吉良氏の重臣で、吉良氏没落の際、野に下り帰農していましたが、井伊直孝が世田谷領を拝領した時、代官に起用されました。 
現在の建物は、宝暦三年(1753)に建築されたもので、母屋・表門は、国の重要文化財となっています。代官屋敷に隣接して、昭和39年に建設された世田谷区立郷土資料館が有ります。ここには、区内各所から出土した考古学資料、中世以降の古文書等及び民族資料が収められていますが、大場家所蔵文書の「楽市掟書」は、天正6年(1578)小田原城主北条氏政が楽市を許可した内容のもので、ボロ市の起源とされています。

        

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村越 和平
3区隊(通信)