隊友ふれあいウォ−キング
池上本門寺から大森貝塚へ

 春を迎えた4月2日、隊友ふれあいウォーキング「池上本門寺から大森貝塚へ」を実施しました。

 今日の行程は池上本門寺から馬込の川端龍子記念館、熊谷恒子記念館、萬福寺、徳富蘇峰「山王草堂記念館」、尾崎士郎記念館を経て大森貝塚庭園、鈴ケ森刑場跡へと欲張った内容になりました。     
まず、東急池上線「池上駅」に集合、門前町の雰囲気の残る街中を抜け池上本門寺に向いました。

         

 池上本門寺は、鎌倉時代文永11年(1274)日蓮上人に深く帰依した、この地の豪士池上宗仲・宗長兄弟が屋敷を寄進して一寺を建立、「法華経の道場として長く栄えるように」との祈りを込めて、日蓮上人が長榮山本門寺と名付けました。

 日蓮上人は、弘安5年(1282)9月8日病気療養のため身延山を出て、常陸の「隠井の湯」に向う途中、身を寄せた池上宗仲の屋敷で病床に就き、同年10月13日61歳で入滅しました。
日蓮上人入滅後、池上宗仲は法華経の字数(69,384)に合わせて約7万坪の寺域を寄進し、お寺の基礎が築かれたので、以来この寺は「池上本門寺」と呼ばれています。
毎年10月11日、12日、13日の3日間に亘り、日蓮上人の威徳を偲ぶ「お会式法要」が行われ、殊にお逮夜に当る12日の夜は、30万人に及ぶ参詣者で賑います。

         

 惣門、仁王門を潜った後、大堂にお参りする前に、隣接の区立池上会館の屋上に上り、周辺の景色を眺め、その後、大堂・本殿・日蓮上人御廟所を見学の後、寺の一角にある松濤園を訪ねました。
松涛園は、家康の家臣で三大茶人の一人で造園家でもあった小堀遠州による池泉回遊式庭園で慶応4年3月本門寺に東征軍本営が置かれた際、西郷隆盛と勝海舟が会見した所とされ、「南洲・海舟評議の処」の碑が建っています。

         

 次に、多くの大作を残した日本画の巨匠、川端龍子の記念館を見学後、咲き始めたばかりの「馬込桜並木通り」を熊谷恒子記念館に向いました。
熊谷恒子記念館は、35歳で書道を志し、かな書道の第一人者となった熊谷恒子の旧居で、数々の書や愛用品が展示されています。
その作品の素晴しさは、将に感動の一言でした。
馬込は起伏の激しい所で、記念館前の坂を上り下りして大田区立郷土博物館を訪ねました。
ここには、大森貝塚出土品を初めとする考古学資料、海苔養殖の道具等及び馬込文士村関連の諸資料が展示されています。

 博物館を後に、再び坂を上り下りして萬福寺へ。
萬福寺は鎌倉時代建久3年、頼朝の重臣で、この地を領した梶原景時が創建したと伝えられる曹洞宗の禅刹で、境内には、景時の墓とされる五輪の塔と江戸時代、この地を領した旗本木原氏の墓所があり、又文士村の一人、室生犀星の「笹鳴るや馬込は垣もまばらにて」と刻まれた句碑があります。
門前に、名馬「磨墨(するすみ)の像がありますが、「磨墨」は源義経が木曽義仲を攻めた「宇治川の戦い」で、名馬「池月」に乗る佐々木四郎高綱と先陣を競った梶原源太景季の愛馬です。

         

 萬福寺を出て環七通りを横切り、徳富蘇峰の旧居跡に建つ「山王草堂記念館」に向いました。
徳富蘇峰は、明治19年民有社を創立して、日本最初の総合雑誌「国民の友」を発刊し、政府の欧化主義を批判して、平民的欧化主義を唱えました。
記念館には、徳富蘇峰関連の数々の資料が展示されています。

 次に、尾崎士郎記念館に向いました。
尾崎士郎は、大正12年(1923)の関東大震災の直前に馬込に移り住み、作家生活の大部分を大田区で過しました。文士村の放送局といわれ、昭和29年に、この記念館の地に初めての家を持ち、以後10年間過しました。

 再び環七通りに出て、「大森貝嘘の碑」次いで「大森貝塚の碑」が在る大森貝塚庭園に向いました。
大森貝塚は、1877年(明治10)にエドワード・モースにより、日本で初めての学術的な発掘調査が行われたことから、日本考古学発祥の地として知られています。
この時に、発掘された縄文時代後期・晩期の資料は、国の重要文化財に指定され、発掘地点の周辺は、国の史跡に指定されています。
モースの発掘地点は、大田区と品川区の二説が有り、それぞれ「大森貝嘘」と「大森貝塚」の碑が建てられています。
大森貝塚を発掘したモースは、1879年に刊行した“Shell Mounds of Omori”で、貝塚遺跡出土に代表される縄目模様を持つ土器を総称して、“cord marked pottery”と呼びましたが、これを1886年に白井光太郎が「石鏃考」(人類学報告)三号と題する小論で「縄文土器」と訳しました。
これが今日、私達が使用している縄文(紋)土器の名称の由来です。
大森貝塚のある場所は、武蔵野台地の先端に位置し、これより先は海辺に続く低地となっています。
JR線のガードを潜り低地に下り、第一京浜国道(旧東海道)沿いにある鈴ケ森刑場跡に向いました。

         

 江戸の刑場は、最初は日本橋本町に在りましたが、後に浅草鳥越橋際と日本橋本材木町の二ヶ所に移転、更に浅草の刑場は浅草聖天町を経て小塚原に、日本橋の刑場は鈴ケ森に移されました。
鈴ケ森刑場は、正式には品川のお仕置き場と呼ばれ、当時は目前に海岸線が開けており、波打ち際にありました。
 以来、明治4年(1871)に廃止されるまで、慶安事件で由比正雪に加担した丸橋忠也、8代将軍徳川吉宗のご落胤を騙った天一坊、歌舞伎で馴染の白井権八(実名平井権八)、八百屋お七等芝居や映画で御馴染みの人物の他、数多くの無名の人が処刑されています。
 昭和29年「鈴ケ森刑場跡」として、東京都史跡の指定を受け、品川百景の一つにも選ばれる重要な文化遺跡になっています。
刑場跡の見学終了後、京急「大森海岸駅」で解散しました。

         

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村越 和平
3区隊(通信)