隊友ふれあいウォ−キング
多摩川沿いに古代のロマンを追う

 
 秋の一日、多摩川沿いにウォーキングを楽しみました。
東急東横線「多摩川駅」に集合、9時出発、爽やかな天候の下、先ず多摩川沿いの高台に在る浅間神社に向いました。

         

 この浅間神社は、文治年間(1185〜90)源頼朝の出陣に際し、北条政子が富士山を遠望出来る丘陵上から富士吉田の浅間神社に、夫の武運長久を祈り持物の観音像を祀ったことに始まると伝えられています。
この社殿を改築した際、人物埴輪や動物埴輪等多くの埴輪が発見されたことから、1990年に発掘調査が行われ、全長60mの前方後円墳であることが判明しました。
神社に参拝の後、展望台に出て景色を眺めましたが、生憎と雲がかかり富士山は見ることが出来ませんでした。

         

 展望台において、これから訪ねる古墳の概要及び日本書紀に記述のある「武蔵野国造の乱」について説明の後、神社の階段を下り、隣接する亀甲山古墳に向いました。
この古墳は、荏原古墳群で最大、都内でも芝丸山古墳とともに、全長100mを超える前方後円墳として知られ、国指定の史跡とされていますが、発掘調査が行われていないため、埋葬施設の構造や埋葬品が不明で、築造年代がはっきりしていません。
古墳の特徴から、4世紀後半から5世紀初頭に築造されたものと推定されています。

         

 亀甲山古墳に続く8個の古墳群を見学する前に、多摩川台公園管理事務所内にある古墳展示室を見学しました。
展示室には、6世紀関東地方で築造された横穴式石室を持つ、全長約60mの前方後円墳が実物大で再現されており、中に大田区内の古墳の概要と出土品が展示されています。
多摩川台古墳群は、椀を伏せたような小さな高まりが連なっており、南から1号から8号まで計8基の古墳の集まりで、6世紀前半から7世紀前半にかけて築造されたものとされています。
蓬莱山古墳は、全長約97.5mで亀甲山古墳と向き合う形で築造されていますが、関東地方でも最古の古墳として知られています。

 蓬莱山古墳を下り、住宅街の道を北に進むと、四差路の角に観音塚古墳があります。
表示も何もなく、上に家が立ち並んでいるため、予備知識がないと存在すら分りません。
江戸時代、この場所から、人物埴輪が発見され近くの照善寺に観音として祀られたので、後に観音塚古墳と名付けられました。
現住職の話では、以前は公開していましたが、拝観者のマナーが悪く、先代住職がやむを得ず、一般公開を取止めたとの事でした。

 更に、住宅街を進み台端に出て秋葉の黒松を見学の後、台端を下り丸子川沿いに進み、八幡塚古墳次いで狐塚古墳を経て、御岳山古墳を見学しました。
この古墳は、元御嶽神社があったのでこの名が付けられました。七鈴鏡が出土した古墳として、戦前から知られていました。

        

 御岳山古墳の西側に、道路を隔てて等々力不動尊が在ります。
「とどろき」の地名は、不動滝の滝音が轟々と轟き響いたことから起こったと伝えられています。
ここは古くから修験道の行者が滝に打たれ、水垢離をする姿が絶えなかったと云うことです。
今は、流れが細くなり往時を偲ぶよすがも有りません。

 等々力渓谷を上流に200m程行くと広場が在り、この広場に面した谷間の窪地に都史跡の等々力渓谷三号横穴墓が在ります。
等々力渓谷横穴墓群は、これまで1号から3号の3基が調査されており、何れも埋葬した遺体とともに、須恵器や土師器、金銅製の耳環(耳輪)、刀子、ガラス小玉等の副葬品が出土しています。

        

 等々力渓谷を出て、環状八号線沿いに西に歩いて玉川野毛公園に向いました。
この公園内の一角に5世紀前半の関東地方を代表する古墳の一つとして知られる野毛大塚古墳が在ります。
野毛大塚古墳は、1897年(明治30)に地元の人々によって発掘され、組み合わせ式の箱型石棺から勾玉、管玉、臼玉等の玉類と武器、武具の他に石製の模造器具、とりわけ232点にも及ぶ石製刀子が発見され有名になりました。
又、1988年の調査により、それまで大型の円墳とされていたものが、帆立貝式の前方後円墳であることが分りました。

 野毛大塚古墳の見学を終え一休憩の後、再び等々力渓谷に下り、渓谷沿いを歩いて、東急大井町線等々力駅に向かいました。


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村越 和平
3区隊(通信)