隊友ふれあいウォ−キング
麻布台から白金台へ

 
 11月初旬、古代武蔵野の面影を求めて「麻布台から白金台へ」ウォーキングを楽しみました。

 都営大江戸線「麻布十番駅」に集合、前日の雨が嘘のように晴れ渡った青空の下、先ず麻布山善福寺に向いました。
善福寺は、弘法大師が開山した「真言宗」の寺でしたが、後に親鸞聖人により改宗された浄土真宗の名刹です。
ここは、江戸で初めてアメリカ公使館が置かれた所で、安政5年から明治6年までの間、それまで下田にいた総領事ダウンゼント・ハリスが公使となり駐在しました。

  
       善福寺の親鸞聖人像                    善福寺の大いちょう

 善福寺を見学の後、仙台坂(付近に仙台藩の下屋敷が在ったので名付けられた)を上り、有栖川宮記念公園を訪ねました。
この公園は、寛永時代は常陸笠間藩浅野家(後赤穂藩)の下屋敷でしたが、その後、盛岡藩南部家の下屋敷となりました。 
更に、明治29年有栖川宮家の所有となり、その後東京市に寄贈され昭和9年公園として一般公開されるに至りました。
この公園には、台地と低地を巧に利用して滝が流れる和風庭園が造られ、シイ等が茂る樹林と池の間を小径が回遊しており、楓や公孫樹等の紅葉が見ごろでした。

               
                     有栖川宮像

 公園を出て、ドイツ大使館沿いに南部坂を登り、フランス大使館沿いに青木坂を下り光林寺に向いました。
光林寺には、初代駐日米国公使を助けて、日米修好通商条約の締結に尽くしたオランダ系米人通訳ヒュウースケンの墓があります。
ヒュースケンは、善福寺に置かれたアメリカ公使館に駐在していましたが、万延元年攘夷派の志士に襲われて惨殺され、ここ光林寺に葬られました。

               
                    光林寺正門

 光林寺を見学後、明治通りを横断し渋谷川(港区内では古川)を渡り立行寺に向いました。
立行寺は、法華宗の寺で家康・秀忠・家光の三代に渡り仕え天下のご意見番と云われた大久保彦左衛門が、寛永8年(1631)に創建した寺で、大久保寺の別名もあります。
又、彦左衛門の墓の側には、彦左衛門がその義侠心を愛した一心太助の碑もあります。

  
         立行寺正門                        一心太助の碑

 次に、国道1号線沿いに覚林寺に向いました。
覚林寺は、文禄・慶長の役で加藤清正に連れられて来た朝鮮王子が、日蓮宗の僧となり、清正の位牌をもって開いた寺と云われ、江戸時代から清正公(せいしょうこ)さんと呼ばれ親しまれてきました。

               
                     覚林寺正門

 次に訪れた明治学院は、医師で宣教師の米人ヘボンが築地に創設した神学校が、明治20年(1887)に現在地に移り学校名を変えたものです。
卒業生である島崎藤村(1872〜1943)が作詞した校歌「桜の実の熟する時」の舞台となった、ネオゴシック様式の赤レンガの建物は、明治23年建設の校舎兼図書館で、現在は記念館となっています。
大正9年(1920)完成したチャペルで、米人宣教師インブリーが住んだインブリー館は、国の重要文化財となっています。

               
                     明治学院大学記念館

 次に訪ねた八芳園は、明治時代に渋沢栄一の従弟・渋沢喜作が住み、大正時代に久原房之助のものとなりましたが、四方八方から眺めて美しい庭園と云うことで、久原房之助が「八芳円」と名付けたとのことです。

  
         八芳園                            八芳園の庭

 次に、目黒通りを西に向かい、今も武蔵野の面影を色濃く残す国立自然教育園を訪ねました。
国立自然教育園は、大正6年白金御料地となり、昭和24年に一般公開された自然公園で、庭園全体が天然記念物となっています。
園内には、シイ・カシ等の常緑広葉樹、ケヤキ・クヌギ・コナラ・ムク等の落葉樹が入り混じり、鬱蒼とした森林を形成しており、都会から隔離された別世界の感じがしました。

 ここは、鎌倉時代に白金長者と呼ばれた豪族の館が在りましたが、江戸時代に讃岐高松藩松平家の下屋敷となり、明治時代には軍の火薬庫が置かれました。
今は、国立博物館に所属し貴重な武蔵野の生態系が保護されています。

  
     国立自然教育園                   国立自然教育園の紅葉 

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村越 和平
3区隊(通信)