隊友ふれあいウォ−キング
目黒区の史跡を訪ねる


 12月上旬、目黒区の史跡を訪ねました。  
目黒区は、武蔵野台地の東南部に位置し、区の東部に目黒川の谷が在り、又西部に呑川の谷が在り、これ等の谷の支谷が台地を刻んでいて起伏が多く坂の多い町を造っています。

 9:00予定通り祐天寺駅を出発、先ずは祐天寺へ。
祐天上人は江戸時代中期に活躍した浄土宗の高僧で、正徳元年(1711)に6代将軍家宣から命ぜられ増上寺36世住職を務めました。
祐天寺は、「念仏の道場を建てて欲しい」との祐天上人の遺命を受けた弟子の祐海上人が享保3年に建立したものです。
境内の阿弥陀堂と仁王門は、5代将軍綱吉の養女竹姫より寄進されたもので、何れも目黒区指定文化財に登録されています。

   
       5代将軍綱吉の養女竹姫寄進の仁王門               竹姫寄進の阿弥陀堂

 坂を下り、次に訪ねた「めぐろ歴史資料館」は平成20年9月に、旧目黒区立第2中学校の校舎を利用して開館しました。
前身の郷土資料室で行われて来た調査研究や収集資料を基に、目黒の歴史が親しみ易く展示されています。

 山手通りから路地に入り急坂を登り長泉院に現代彫刻美術館を研修の後、又馬喰坂の急坂を下り再び山手通りに出て、目黒美術館を見学後、大圓寺へ。
大圓寺は、元和年間頃(1615〜23)湯殿山の修験僧大海法印が、大日如来を奉じて山を下り、目黒の地に祈願道場を開いたのが始まりとされ、その後、道場は修験行人派の本山となり、多くの行者が出入りし、大圓寺前の坂道は、行人坂と呼ばれるようになったと云われています。

 江戸中期の明和9年(1772)2月、大圓寺から出火した火は、江戸城の一部も焼き、江戸の町の凡そ三分の一を灰にする大火となり、江戸の三大火事と呼ばれています。
境内に在る石彫の五百羅漢像は、この大火で犠牲となった人々の霊を慰めるため造られました。

            
                    松林山大圓寺五百羅漢石仏群        

 次に訪ねた海福寺は、元治元年(1658)隠元禅師が深川に開創した黄檗宗の寺で明治43年に現在地に移転。
門前に、文化4年(1807)深川八幡宮の祭礼で起きた永代橋落橋事件の溺死者の供養塔が在ります。

 供養塔に御参り後、直ぐ隣の五百羅漢寺を訪ねました。
天恩山五百羅漢寺は、黄檗宗の寺として元禄8年(1695)鉄眼禅師を開山とし松雲元慶禅師が各方面から浄財を受け、約10年の歳月をかけて自ら彫刻した536体の釈迦三尊像を始め五百羅漢像を中心として本所に創建した寺で、江戸市民の信仰を集め、「本所の五百羅漢」と敬われていましたが、明治24年に現在地に移転し「目黒の五百羅漢」として親しまれています。

            
                  五百羅漢寺羅漢堂に並ぶ羅漢像  

 目黒不動尊の正式名称は、泰叡山瀧泉寺と言い大同3年(808)慈覚大師開山と伝えられる天台宗の古刹で、関東最古の不動霊場です。
本尊の不動明王は、徳川三代将軍家光が江戸鎮護の為に制定した「江戸五色不動」の一つで、寛永年間には堂宇伽藍50余坊という大寺院となりました。   
以後、江戸市民の信仰を集め門前も大変賑いましたが、戦災により江戸時代の建物は大半が失われ焼け残った「前不動堂」及び「勢至堂」は、江戸中期の仏堂建築として貴重な文化財と云われています。

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                   目黒不動尊・泰叡山瀧泉寺大本堂?

 最後に訪ねた「林試の森公園」は昭和33年に農林水産省の林業試験場として造られましたが、昭和53年に試験場の機能は筑波に移り、平成元年に公園として整備されました。
東京ドーム2個分の広さ(12万u)を有し、園内には水も流れており珍しい野鳥や樹木が見られます。

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村越 和平
3区隊(通信)