隊友ふれあいウォ−キング
日光・奥州街道の宿場町千住へ

 行春や 鳥啼魚の 目は涙。 
松尾芭蕉は、1689年千住で船を上がり、矢立初めとして、この句を詠み日光街道を奥の細道600里へと旅立ちました。
この日光街道・奥州街道の宿場町であった千住の街を訪ねました。

 南千住駅を出発、爽やかな天候の下、先ずは小塚原刑場へ。 
小塚原刑場は鈴が森刑場と並ぶ江戸の刑場で、磔・斬首等が執行されていました。 
荒川区指定の有形文化財である首切地蔵は、東日本大震災で傷み、首と胴が切り離され台座から下ろされていました。

          

 隣接の回向院には、小塚原刑場で処刑された吉田松陰・橋本左内等幕末の志士や鼠小僧次郎吉・高橋お伝の墓が在ります。 
又、杉田玄白や前野良沢等がここでの刑死者の解剖見学をきっかけに「解体新書」を翻訳したことから「近代医学発祥の地」として記念碑が建てられています。

 日光街道(国道4号線)沿いに、素盞雄大神、飛鳥大神を祭神とし荒川区内で最も広い氏子を持つ素盞雄神社が有りますが、境内に江戸時代に千住宿の文人等により建てられた芭蕉の矢立初めとして読んだ句碑が有ります。
神社の隣にある区立博物館「荒川ふるさと文化館」で、荒川区の歴史・文化を学んだ後、千住大橋の袂に在る熊野神社を訪ねました。

          

 何の変哲もない小さな神社ですが、永正5年(1050)に奥州征伐に向かった源義家が荒川(現隅田川)の渡河を祈願し、熊野の御幣を祀ったのが始まりと伝えられており、関東郡代伊奈忠次は、家康の命により千住大橋を架ける時、当社に成就を祈願し、文禄3年(1594)橋の完成にあたり、その余材で社殿の修理を行いました。 
以後、千住大橋の守護神として祀られています。

 千住大橋は、徳川家康が江戸に入って最初に架けた橋で、もともと大橋と呼ばれていましたが、後に下流に新大橋が架けられた為、千住大橋と呼ばれるようになりました。 今でも橋には大橋と書かれています。        
又、歌川広重の名所江戸百景にも描かれております。
 橋の下が小さな公園となっており、千住大橋等の歴史が書かれていますが、それらを読みながら橋の下を潜り抜けて岸に上がり、次の訪問地である千住の魚河岸・足立市場に向かいました。

               

 足立市場は、都内唯一の水産専門中央卸売市場で、城北地区の拠点市場として、城北地区、千葉北部、埼玉南部へ水産物を供給し、中央卸売市場としては、小規模ながら都民の台所として、日々安全な水産物の安定供給に努めています。

 千住宿は、日光街道及び奥州街道の初宿で、江戸四宿の一つでしたが、関東大震災及び戦災により、現在宿場町の面影を残すものと言えば、通りの所々に立てられた立札による説明文くらいで、それらを読みながら通りを進むと、江戸時代の蔵をそのまま無料貸出しギャラリーとして活用している「千住歴史プチテラス」が在り、入口にはやっちゃ場の跡地であることが分る案内板が在ります。 
この日は、地域の書道塾の子供たちの作品が展示されており、出品した子供達とふれあう事が出来ました。

 千住1丁目に明治の文豪・森鴎外の住居跡があります。 
1879年頃に父静男が橘井堂医院を開業し、約2年後鴎外自身も医師として医療活動を行ったと云われています。

 本陣とは、大名が参勤交代を行う際に宿泊する場所を言い千住宿本陣は3丁目に在りましたが、今は路地の入口に小さな標柱が在り、路地を入った左側に、その当時を物語る簡単な説明板が有るのみです。

               

 街道を更に進むと、左側に絵馬屋・吉田家、右側に横山家住宅が在ります。 
吉田屋は、江戸時代後期から際物問屋として、絵馬・地口絵紙・凧等を描いて来た当代で8代目と言う老舗で、東京で数少ない手描きの絵馬屋です。
又、旧地漉紙問屋「松屋」横山家の家屋は、江戸時代後期の建築で、商家の面影を今に伝えています。

               

 街道が荒川に突き当たる手前に、1770年頃から柔術を教えながら骨接ぎを手掛け今も開業している、千住名倉医院が在りますが、入口は長屋門になっており江戸時代の名残を今に伝えています。

          

 名倉医院を後に、荒川土手に出て虹の広場を見ながら千住新橋を渡り、遠方にスカイツリーを眺めながら西新井大師にお参りに行く為、東武伊勢崎線「小菅駅」に向かいました。

 千住には、現在東京芸術大学、東京電機大学、東京芸術センター等が、誘致され学芸の街として賑わっていますが、街の人が皆で宿場町としての歴史を大切に保存して貰いたいと思います。

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村越 和平
3区隊(通信)