“故塚原茂樹君の御霊に謹んで哀悼の意を表します。”
山の仲間であり同期であった塚原が逝って早2ヶ月半が過ぎた。非常に若過ぎる死であり山の先輩を失ったことは残念でならない。昨年8月(医師の診断結果は11月)発病以来、私には彼はこれも運命と従容として病気を受け止めた様な気がする。それは最後まで最新の医学的治療は受けようとしなかったからである。そこに平素から彼が口にした会津出身の矜持を忘れなかった古武士然たるものを感じた。死の2週間前まで電話で話をした野村の話ではいつも病気の事は一切口に出さず次に登る山の話をしたという。
凡人の小生など真似をしようとしてとても真似ができないことである。通夜に出席して今上の別れをしたいとご家族の許しを得て拝顔し別れをした。思わず「バカヤロウ―!なんでそんなに先を急いだんだ!」という言葉やっと飲み込んだが、同時に痩せこけた顔を見て勝ち目がないことを知りながら最期まで死と壮絶な戦いをした塚原らしい見事な死に様であった。震える思いで否定しがたい友人の死の厳然たる事実に言葉を失ったものである。この思いは野村も同じ気持ちであったようで、いつか必ず仲間と彼の追悼登山をやろうと呟いた。
梅雨の前触れを思わせる6月初旬の長雨の中の晴れた一日{7日(日)}兼ねてからの想いであった塚原追悼登山を実施した。
この登山には塚原の教え子とも言うべき二人の女性も参加して花を添えてくれた。行先は塚原が生前から愛して止まなかった丹沢山隗の名峰「塔の岳」(1,491m)とし野村が細部計画を担当した。彼なくして実現は不可能であり、その労苦に心からお礼をするものです。
午前8時小田急線秦野駅北口バス停に4人は集合、乗合バスで「ヤビツ峠」に向かった。乗り場は日曜日とあってこの一番バスを狙う登山客で溢れていた。バス会社の機転で臨時バスが増発されはしたが、それでも鮨詰の状態で出発した。街中を過ぎるとやがて急勾配の山間の狭隘でカーブの多い道を縫うようにしてバスは喘ぎながら登って行く。もう直ぐ終点というところで乗客の一人が気分を悪くしバスは一時停車するハプニングもあったが、9時少し前に「ヤビツ峠」バス終点に到着した。
野村の指導で簡単な準備体操し、装具を点検後9時10分ゆったりと登り始めた。野村を除いて約1〜2年の登山の空白期間がありこれを埋めるに助走時間が必要であった。最初は丹沢の山懐に抱かれる幸福感の中で濃度を増した新緑を楽しみ、美味しい空気で肺腑の底まで満たしながら、中間点より相当手前の「三の塔」を中間目標に設定した。少しガスがかかり視界は利かないが暑くもなく登るには好条件であった。平均年齢66歳の我々の一団は遅いペースで進み、後からくる若者の集団には次々と道を譲りながら、道端の草花を愛でながら歩を進めた。 小1時間程して「二の塔」に到着小休止した。
休息する人の中に一人の老人(後で聞けば御年89歳の男性)がいてその元気さに驚き、その元気にあやかろうと一緒に写真を納める光景も見られた。汗が引いて態勢を整え再び鋭意「三の塔」に向かう。視界は依然として良くない。僅かに雲間から厚木・江ノ島方面が見えることもあった。その代わり目を疑うばかりの木々の濃い緑と路傍に咲く美しいつつじの花等が疲れを癒してくれる。 11時ころ「三の塔」に無事到着ほぼ予定した時刻に中間目標を奪取した。ここまで皆元気で冗談も出るし口数も多かった。
しばらく休んでいると先ほどの89歳の男性が登ってきたのには更に驚いた。 体も慣れて逐次昔取った杵柄と言うか勘を少しずつ取り戻し、汗をかきながら黙々と緑のトンネルの稜線をひたすら登る。登ること以外何も考えずひたたり落ちる汗を拭うこともなく登るうちに煩雑な世事や雑事や悩みを一切忘れ無我の境地になる。ある女性が思わず「命の洗濯よね!」と独り言を呟いたが、皆同じ心境であったようだ。
小休止を何度か取りながらやがて小高い廃墟となった山小屋のある丘に着き、やや遅い(14時頃)昼食を摂った。お互い持参した弁当を出し合い雑談をしながら楽しい昼食をとった。そのうち野村がやおらリックから塚原の元気な登山姿の写真を取り出してそっと食卓に飾った。野村のやさしい心遣いに思わず熱いものを感じたのは小生だけではなかった。話題は塚原の想い出話となりひとしきり故人を偲んだ。
昼食後、野村は時間行程が計画より少し遅れていることを感じ早目に休憩を切り上げ最終目標の「塔の岳」を目指すことにした。反対方向からくる若い登山客に頂上まで後どのくらいかかるかと野村が聞くと1時間半はかかるだろうとの話であった。「塔の岳」から下山してバス停までの所要時間を2時間半とすると16時までには頂上に着きたいと気持があったようだ。この季節日が長くなったとは言え19時頃には暗くなることを承知していた。
昼食後は新たなエネルギーが補給され皆の歩調は快調であった。途中何ヵ所には鎖で降りる難関な場所あって怖くて半ベソをかきそうになる女性を男性二人で助けながら何とか突破して16時少し前に無事「塔の岳」頂上についた。いつ登っても頂上で山塊を足下に踏みつける快感は堪えられないものである。再び塚原の写真を取り出し彼を囲んで祈念写真を撮った。下山に備え態勢を整え16時10分頂上を後にした。「大倉バス停」まで所要時間は2時間10分と道標に書いていた。
もしそのとおりに進めば日暮れまでには必ず着けると皆が気合いをいれピッチを上げた。しかし上りに慣れた足は急には下りに馴染まず思うように足が前にでない。 相当疲労も溜まった足には下りの階段状の道は予想以上に膝に衝撃を与える。おまけに前日来の雨で少し滑る。苦労しながら下るうち行程の半ばを過ぎた頃ひとりの女性が膝に間欠的な痛みを起こし遅れ始める。 先頭は野村中に二人の女性を挟み殿は小生の順番は当初より変わらない。
先頭野村と一層連携を密にとり合いながら速度を調整するが、安全確保には暗くなるまで着きたいという気持ちからか野村の足は心なしか速く、時々ストップをかけることもあった。とうとう終点手前2キロ付近から女性の膝痛は更に増してきた。ストックで膝を庇いながらゆっくり歩くことを余儀なくされた。やがて単独歩行は困難(勝手にそう判断した??)と判断、御主人には申し訳ないがしっかりと手を繋ぎ痛む足を庇いながらの下山となった。石ころの坂道でしかも時に滑る下山道に難渋をしたが、女性と手を繋ぐ有難いおこぼれを頂戴しながら必死に野村に続いた。
予定より1時間以上オーバーして「大倉バス停」のある集落に到着した。既に周辺はどっぷり暮れて暗くなり民家からこぼれる柔らかい光を見た時はややオーバーであるが無事の生還とお互いの健闘を称えあった。再びバスの乗客になって渋沢駅に到着、小田急線に乗り換え家路に着いたのは21時半を少し回っていた。風呂に入りビール飲んで疲れを癒し無事に予定コースを踏破した充実感・満足感に浸ると共に塚原との約束を果たし胸のつかえが取れた。
話を変えるが元自衛官で鍛えた小生でも後半付近では疲れを感じる行程を、これから更に2時間以上かけて横浜に帰る彼女達の健脚には驚くほかはなかった。世の男性諸氏はくれぐれの平素の鍛錬を怠るこのなきよう警告を申し上げる。そして多忙な中、追悼登山に花を添えてくれた彼女らの好意には故塚原に代わって感謝したい気持ちで一杯であった。これも一重に彼の人徳の致すところであったろう!
雨で何度も延期したが執念を貫いて実行までこぎつけた野村の努力には感謝の他ない。改めて感謝する次第である。やはり持つべきものは友であり、塚原も良い友を持ったものだ。「すまんな!ありがとう!」と言っている声が聞こえるようだ!
合掌
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特 科 曽宮建夫