腰を抜かしもうダメかと
思った話(その2)
自慢話のひとつでもと思ったが、その種のモノが浮かばないのは残念である。 暑気払いにと、恥ずかしながら再び失敗し進退窮まった話です。 当時の事は今でもトラウマとして残っている。 話は約20年前のヘルシンキで体験した恐怖です。 日本が平和維持活動(PKO)に乗り出した1993年(その前年の‘92年に我が国がUNTAC《カンボジア統治暫定機構》に自衛隊施設大隊約800名を初めてPKOに部隊を派遣した)、PKO草創時代の頃である。 政府は我が国もPKO分野において世界に貢献しようとし、その分野の基幹要員養成が喫緊の課題であると判断し、その具体的な措置として停戦監視員課程(在フィンランド)に研修員を派遣した。 そして2名が指名され、そのうちの一人として同課程に入校を命じられた。 約11週間30名のPKOに関心を示す諸国、主に北欧4ヵ国の他、ドイツ、エジプト、シンガポール、日本の計8カ国の将校が入校してフィンランドに集まり研修を受けた。 全ての公式教育が終了したころ、フィンランド政府が企画した3泊4日のフィンランド国内研修旅行に参加した。 この旅行の狙いはフィンランド国内の実情の把握という事であったが、研修終了の慰労の色合いの濃い卒業旅行という意味もあったようだ。 初日は同国の軍事産業の実態を研修し、翌日から観光地特にヘルシンキ、タンペレ、ラハチィの名所旧跡等を訪問した。 初日はフィンランド最大の軍事産業のシス(我が国で言えば三菱重工業、ドイツではシーメンスに相当)という軍事産業を見学した。 工場はとても活気があり、多くの従業員が水陸両用兵員装甲輸送車を生産しているラインを見学した。 完成された輸送車は全て白く塗装され「UN」と墨書きされ、国連に納入するものであった。 ちゃっかり見返りを受けているなと痛く納得した。 ちなみに入校した停戦監視員課程のある訓練センターの正式名称は国連PKO訓練センターで、名称には「UN」が冠されているが運営資金はフィンランド政府の持ち出しである、とセンター長が説明したことがある。 その日はフィンランド最大都市で首都であるヘルシンキに宿泊した。 ホテルはヘルシンキ目抜き通りのマンネルハイム通りに面する「マルスキ」というホテルにであった。 早目の午後4時前にはホテルに到着、ロビーには沢山の若い女性が手持ちぶたさの体でアルコールを飲んでいた。 偶然その宿泊客の中に日本人のグループ(10数名)がいた。 某県教育委員会が現職教員の海外研修の一環で訪問しているという話であった。 前置きが長くなったが、夜のヘルシンキの状況を散策にマンネルヘイム通りをぶらついた。 やがてその通りから一本通りを離れて、静かな落ち着いたきらびやかな通り、日本で言えば銀座通りに相当する道路で、中央帯が公園になった広く明るい道を日本大使館がある港まで散歩した。 同行のフィンランド将校の説明を受けながら港について中華料理を食べ、同じく徒歩でホテルに帰ると、たむろしていた女性はいなくなりロビーは閑散としていた。 午後10時頃だと思うが夜というのに昼間のように明るい。 緯度が50度以上にあるからである。 ホテル5階にある自分の部屋に帰り、シャワー浴びてサウナに入ることなくベッドに入った。 翌朝朝食後、出発まで2時間近くあることを確認して、サウナに入ろうと8階にあるサウナに独りで出掛けた。 エレベーターの中の表示板で8階にサウナがあることを確認した。 8階廊下に出てあちこち探したがサウナの部屋が見つからない。 暫くして探して中央廊下の突き当りにドアーがあった。 そこがサウナ部屋ではと軽い気持ちでドアーを開けると簡単に開いた。 直ぐに間違いと気づき中に慌てて入ろうとドアーノブを回すが今度は開かない。 さあ大変!頭が真っ白になり何度も開けようとしドアー扉をたた。 恥も外聞も忘れ「Help me! Help me!」と何度も大声で助けを求めたが全く反応はない。 いよいよパニクリ大袈裟だが気が狂いそうになった。 約10分程度であろうがとても長く感じた。 バスの出発時刻は刻一刻と迫ってくる。益々焦った。 汗をかき疲れきり進退窮まり床にへたりこんだ。 どのくらい経ったか、そのうち少し気分が落ち着き周囲が見えるようになった。 外部は全く見えず閉鎖した部屋に閉じ込められた気がし、これでおしまいかと再び猛烈に焦った。 周囲を見回すうち閉塞されておらずある隅に階段があり、今いる場所は階段の踊り場であることが分かった。 思考力が一部戻り、もしかしたらこの階段は下に続いているかもしれないとやっと気づいた。 そして不安を抱えながらゆっくりゆっくりと階段を下りていくと一階と思われる場所に重い鋼鉄製のドアーがあつた。 ノブを回すと簡単に回り、あっけなくドアーが開いた。 見ると大きな道路があり、ホテルの裏側の道路と確信し、ビルの外に出たことを確信した。 とにかく生還し、表現できない程大いなる安堵感を感じた。 サウナに行こうと部屋を出た服装で、裸足にスリッパーという格好であった。 早朝の路上には人はいなかったのを幸いに、ホテルビル沿いに歩いてホテル正面入り口にたどりついた。 そしてさりげない様子を見せながら、ロビーにいるスタッフを無視して自分の部屋に帰りついた。 時計を見ると出発集合時間まで30分を切っていた。 大急ぎで出発準備を整え予定時間に集合場所に向かい、、何食わぬ顔をしてツアーに参加した。 あの時あのままへたりこんでいたら、とんでもない恥をかくばかりか、センターに多大な迷惑をかけたと思うと今でも体中に冷や汗せが浮かぶ。 暑気払に相応しいとんだ失敗談を披露しました。
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1区隊
特 科 曽宮建夫