寺村 誠士
  3区隊
  職種: 施設科


平成26年10月9日(木)から24日(金)まで16日間、平成26年度硫黄島戦没者遺骨収集帰還第7回収容派遣団に参加してきましたので、その概要を報告いたします。
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 硫黄島における戦没者遺骨収集は、厚生労働省(社会・援護局企画課外事室)が防衛省と各種団体の支援を得て実施し、昭和27年に調査を行ってから平成26年9月末までに合計10350柱をお迎えしており、主要な壕や集団埋葬地の収容はほとんど終わっています。
然しまだ約1万名弱の御遺骨が未帰還となっています。
硫黄島では民間業者を活用し全島で面的調査を行い、発見した壕等に平成23年度からは年に15回(1回2〜3週間)収容団を派遣してご遺骨の収容を行っております。
この派遣団に私が参加をしたのです。

  

 また、これと並行して平成26年度から4年間現在の滑走路地区の収集を行っています。
ここは砲兵陣地等があった台上を米軍が機械で一挙に飛行場を建設したところですので多くのご遺骨を収容できるのではないかと期待されています。
科学的な調査で兆候を発見し油圧ショベル等で掘削する要領で、年間5回実施していますが未だ成果が上がっていません。
我々はこの作業には参加できません。

 収容派遣団の構成は、日本遺族会、硫黄島教会、小笠原村在住硫黄島旧島民の会、JYMA日本青年尉児湯収集団、大東亜戦争全戦没者慰霊団体協議会(以後全慰協という)、IVUSA国際ボランティア学生協会、水戸2連隊ペリリュー島慰霊会の8団体です。

 我々が所属している「全慰協」には平成26年度1回当たり2名、年間20名の割り当てがあり、これを参加団体である隊友会、水交会、翼会、偕行社、郷友連盟等に希望人員に応じて割り当て調整しているということです。
隊友会では今年度希望調査を実施したところ昨年度より30名位多くなって現在90名超の希望者が集まり来年2月まで予約は確定しているので、これから希望してもすぐに派遣団に加わることは難しそうです。

硫黄島戦没者遺骨収集帰還派遣第7回収容派遣の状況を報告します。

 私は全慰協の一員として参加し10月9日18時までに入間第一ホテルのチェックインをすませ、ホテル会議室で結団式及び説明会に参加しました。
この際ホテル代金及び硫黄島滞在間の宿泊・給食等費用の支払いをしました。
10日9時40分厚労省のチャーターバスでホテルを出発し航空自衛隊入間基地のターミナルに到着。
荷物は10キロまで1個と携行手荷物1個と決められているので重量オーバーにならないか心配でしたが無事クリアー。

 12時20分航空自衛隊のC―130で入間基地を飛び立ちました。
2時間半で硫黄島に到着予定です。
硫黄島周辺に雷雲が発生し引き返すかもしれないと言われましたが、結局ラストチャンスに滑り込んで4時間半かけて硫黄島に到着しました。
ここで小笠原から来た小笠原村職員、旧島民の方と合流し厚労省職員2名と合わせ派遣団員29名が揃いました。
参加者のうち初めての者は私ともう一人だけ、あとは年に数回来ている人や30年も続けている人等ベテランが殆どでした。

 硫黄島の気候は同緯度の台湾北部と同様、冬が無く平均20度〜35度程度の熱帯気候でさわやかな海風が吹き過ごしやすいと感じました。

        

    

 私達が滞在中は水が十分ありましたが、滑走路に降った雨で飲料水を賄っているため渇水時は大変苦労するそうです。
硫黄島には海上自衛隊硫黄島航空基地隊と航空自衛隊硫黄島航空基地隊が駐屯し、我々は基地の中の鉄筋コンクリート2階建てBEQに宿泊しました。
個室は常時空調され2部屋共用のシャワー、便所もあって快適な住環境です。
食事は基地の食堂で皆一緒に行動し喫食します。
副食は本土から送られてきた出来合いのものでしたが美味しく頂きました。
鹿島建設等民間業者も常駐しプレハブ部落で多数の人が生活していました。
裏庭にはバナナ、パパイヤ、ドラゴンフルーツ等の小さな果樹園や家庭菜園もあり、夜には小笠原オオコウモリも食事に来るそうです。

 11日には天山地区の「硫黄島慰霊碑」を参拝し英霊に対し来島報告をいたしました。
後は各人ごとの行動となりましたので「東京都鎮魂の丘」に参拝し慰霊しました。

  

12日は日曜日で休務です。
午前中厚生棟でお酒やおつまみ、お土産物を買い出し、午後は米軍シャーマン戦車残骸と西海岸の米軍沈船群を見学し旧軍の戦果を確認しました。
硫黄島は現在も一年間約28ミリ隆起しているそうで、沖にあった兜岩は陸続きになり、沈船も段々と姿を現してきたのだそうです。

  

 13日からいよいよ作業実施です。
午前中3時間、午後2時間実作業を行い、現場へはマイクロバスで行き来します。
作業の開始と終了時は英霊に対し拝礼を行います。
硫黄島は30m程度の海岸段丘が2〜3段ありこの入り組んだ段丘を利用して巧妙に地下壕と野戦陣地を作っています。

  

 今回の作業場所は199地区(900m四方の区域)、元山飛行場跡と燃料施設の中間地域、海岸から第2段の段丘にある地域です。その中を180m四方に区切ったB地区の海軍迫撃砲部隊の陣地です。
既に民間業者により電灯と送風機がセットされていました。
Bー1は壕口から4m階段を下ったところまで掘り出され後は壕全体が埋まっていました。
B―201は横10mの所にあって壕口のみ開いていました。
これを掘り出してゆくのですが、70年間の堆積は砂や錆を含んだ土砂が層をなして固く締まっていました。

      

 特に困難な場合は民間業者に削岩機で掘削してもらいますが、先頭の人がショベルとツルハシで掘削し、次の人が土砂を箕(ざる)に入れて後ろに送り、坑道の中に並んだ人が次々と送ってゆき、壕外に撒いて内容を確認します。
箕を15〜20箇送ったところで先頭を交代して繰り上がり、約20〜30分程度で一作業を終え全員壕外に出て休憩します。
これを交代しながら繰り返していくのです。

 80歳代の人や女性も3人参加しているぐらいで極端に疲労するほどではありません。
然し先頭で掘削中空隙があるとそこから約80度の熱風が吹き出したり、壕底を出すために掘り下げた時にも座っておれないほど熱くなる時があります。
狭い坑内でサウナに入ったような状態なため、汗で砂まみれになり出てくると空気が美味く感じます。

 陸上自衛隊から不発弾処理隊の隊員2名(山形)、化学防護隊からも2名(朝霞)が支援に来て一緒に作業していました。
また、駐屯する海空自衛隊員も交代で作業に参加してくれました。
空自の基地司令まで土曜日に私たちと一緒に壕内作業を行ってくれたのには頭が下がる思いでした。
陸上自衛隊のCGSやFOCの学生が戦死研修のため来島した時に、遺骨収集団に対し何の挨拶も感謝も示していないと聞きましたので、これは早速是正しなければいけないと思います。

 掘り進むうちに壕内気温が耐えられないほど上昇したため、旧島民の会の油圧ショベルで掘削しもう一方の開口部を作りました。
そこから掘り進み前の坑道と繋がってやっと空気が流通し、壕内温度が下がり更に掘り進むことが出来ました。
10月22日まで7日間かけて約30m掘り進みましたが、更にその先があり時間がないため次回の派遣団に申し送ることになりました。
この間、壕内からは81ミリ迫撃砲弾107発、手りゅう弾、小銃弾、ツルハシ、斧、防護マスク、乾電池、靴底、ガラス瓶、缶詰、木箱等が出てきましたが、ご遺骨はお迎えできませんでした。

 Bー1から少し離れたGー1も一部作業したのですが、壕口から一度8m下がって進み壕内で3m、4mと上がる3階建て構造の立派な地下壕でした。
ここも重機で3階部分の壕口を掘削し空気の流通を確保し気温を下げてから作業を始めましたが、Bー1に作業を集中するため1日で作業を中止し次回に譲りました。
ここでも御遺骨には会えませんでした。

 重機隊が並行してA―201を掘削していたところたまたま壕壁を崩してしまい、ここからご遺骨が1柱出てきました。
御遺骨は取り敢えず宿舎の遺骨安置所に安置し、帰還時厚労省プレハブの安置所に安置しました。
年度最終派遣団が帰還時まとめて本土に持ち帰り千鳥ヶ淵に安置するのだそうです。



 10月23日使用道具を洗浄し帰還準備を行い、硫黄島慰霊碑に1柱の御遺骨を捧げ帰還報告。
午後から擂鉢山をはじめ各地の慰霊碑に参拝する島内巡拝を行い、夜は作業に関与したすべての人が鹿島のプレハブ食堂に会して懇親会がありました。

10月24日午後C―130に搭乗し硫黄島を出発して入間基地に到着、往路は荷物満載でしたが帰路はゆったりと座れました。
空港ターミナルで解散となり稲荷山門までバスで送ってもらい帰路につきました。

 英霊の顕彰及び遺骨収集については、その重要性が認められ今臨時国会か又は次期国会で法律が制定され一段と強化されようとしています。
余りにも遅きに失した感はありますが何はともあれ歓迎すべきことです。
硫黄島での未帰還遺骨が約1万柱、海外の未送還遺骨概数は113万柱あるにもかかわらず、今回の遺骨収集でやっと1柱を迎えたにすぎません。
ご遺骨の収容は年とともに困難になってきております。
参加を希望する人が増え、もっと多くの人が参加出来る様になり一刻も早く御遺骨をお迎えできるようになることを願って止みません。

 

硫黄島遺骨収集事業に参加して