島嶼防衛における危機管理

    ―フォークランド紛争と尖閣問題―
             本論の構成 
                  1 領土紛争―専制の失政を隠す政治手法
                  2 国防政策―軍備の効率化という落とし穴
                  3 情勢判断―主観を排し最悪を予想せよ
                  4 対米期待―米国は英国の要望に応えたか? 
                  5 離島作戦―決め手は兵站準備と高速輸送
                  6 国民動向―戦うべき時に戦わねば滅ぶ

 昨年9月の尖閣諸島沖での中国漁船体当たり事件は、中国が主権を主張する釣魚島に対する侵略の可能性を示すものである。日本政府は「日中間に領土問題はない」と言い張るが、これほど国際社会の現実を無視した媚中外交や、国益を軽視した対応は無責任である。それらを考えず、超法規的に刑事事件として早期に幕引きを図った処理は、国家意識のない市民社会を標榜する権力者の、専横・事なかれ・敗北主義に他ならない。そもそも紛争(disputes)とは、暴力や武力が持ち出される寸前に達した国際的に激しい外交衝突を意味する。それに対し、武力や暴力や実力といったパワーを自分から専制的に発動させることを持って、侵略(aggression)とする。これが国際法の定義であり、フォークランド紛争の教訓である。

 フォークランド紛争とは、アルゼンチンのガルチェリ軍事政権が1982年4月2日、南大西洋の英領フォークランド諸島を軍事占領したことに始まる局地紛争である。英国は同島奪回に、1か月半の準備と、1万8千人の将兵、2隻の空母・29隻の巡洋艦等・50隻余の民間徴用船、40機の戦闘機等を派遣した。奪回作戦による英軍の戦死者は250人(アルゼンチンは650人)、戦費は7億ポンド(約3050億円)にのぼったとされる。

 紛争の直接原因は、アルゼンチンの軍事政権が積年にわたる外交交渉にしびれを切らし、経済停滞で落ち込んだ支持率を挽回する狙いだった。一方、侵略を許した英国側の誘因は、紛争を抑止する「能力」が低下し、同諸島を守り抜く「意図」に疑念を抱かせたことであり、一部指導者の専横によって民主主義国家が奇襲を受けたのである。では、フォークランドという南の果ての忘れられていた島が、なぜ国際紛争の舞台となったのか。一万数千人の秘密情報員や「M16」といった優秀な情報機関を持つ英国が、なぜ奇襲の兆候を見逃したのか。非戦闘員を含め5万も人員を13,000kmも離れた地域に派遣して奪回するため、いかなる準備を行ったか。英国とは「特殊な関係」にあるとされる米国が、アルゼンチンとの同盟のなかで、いかなる対応をとったか。フォークランドをインド洋か豪州近辺の領土と思い込んでいた英国民が、なぜサッチャー首相の下で立ち上がったのか。こうした点を、尖閣問題に絡めて眺めてみたい。ちなみに、日本の領土は3500kmの列島から構成されており、英国が実施した13,000kmという距離は、日本列島の4倍弱、本州の長さの10倍に相当する。

1 領土紛争―専制の失政を隠す政治手法

(1) 領土問題とナショナリズム

 フォークランド諸島は、南米大陸最南端ホーン岬から約 600km北東に位置し、主要産業は60万頭の羊牧が中心で、当時の人口は英国系1,813人、アルゼンチン系30人だった。この諸島をめぐる両国の争いは古い。アルゼンチンはスペインからの独立に際し領有権を継承したが、1833年に英国が侵略したので、その後も返還要求を続けてきた。一方英国は、150年にわたる統治当地の実績、島民のほとんどが英国人移住者の子孫という事実、彼らが英国帰属を求める強い意志を踏まえ、同島に対する主権を保持してきた。

 フォークランド諸島が再び注目を集めたのは、第二次大戦後にアルゼンチンが反英闘争のシンボルとして取り上げたことによる。ナセルのスエズ運河国有化運動に刺激を受けたペロン大統領が、国民大衆を動員する手法としてナショナリズムを掲げ、英国人所有の鉄道や銀行を国有化し、フォ諸島の主権奪回を主張して国民を煽った。こうした主権回復運動は国連でも取り上げられ、1965年に両国間で平和解決するよう勧告を受けた。そこで英国は、石油と漁業の開発にアルゼンチンを参加させる見返として、領有権を承認するよう求めたが、アルゼンチンは応じなかった。

 アルゼンチンの「主権奪回運動」が先鋭化したのは、同国の政治情勢が不安定になったためである。クーデターでペロン政権を倒した軍事政権は、1977年10月に南ジョージア島への上陸作戦を検討した。この極秘情報を得た英国労働党政権は、直ちにフリゲート艦2隻と潜水艦1隻を派遣し、「フォ諸島周辺25マイルを戦争水域にする」と警告した。その結果、この時点での武力衝突は回避された。その後、アルゼンチンでは150%のインフレ、30%の失業率、左右過激派によるテロの頻発などが続き、政治情勢は険悪化した。1981年12月に大統領に就任した陸軍司令官のガルチェリは、政治的弾圧と経済的引き締めに乗り出す一方で、英国との10年間に及ぶマラソン交渉にしびれを切らし、軍事解決を検討しはじめたのである。

 アルゼンチンが侵攻する3日前の1982年3月30日、首都で激しいデモ行進が起こり、警察の弾圧で逮捕者2,000名、負傷者数百人に達していた。軍事政権が「フォ島奪回」の冒険に乗り出したのは、この内政の危機をかわすためである。事実、フォ諸島を奪回した4月10日、ブエノスアイレスはガルチェリ大統領支持の群衆で埋まっていた。政権の民政移管を求める野党ですら、反政府活動を停止することを申し合わせるほど、ナショナリズムは燃え上がったのである。  別葉 写真

(2) 領土紛争と専制国家の関係
 
 文明史家トインビーは、19世紀〜20世紀に欧米・日本などに搾取された中国が、21世紀にルサンチマン(復讐)をはじめるので、世界は「シナ問題」に忙殺されるようになるだろうと述べている。(入江隆則、2010.10.21 産経新聞) 世界第二位の経済大国となった中国は、20年以上にわたって毎年二ケタ台の軍備拡張を続け、空母を含む外洋海軍を建設し、南シナ・東シナ海で近隣諸国と衝突を重ねている。13億国民の資源獲得のため、「核心的利益」と称しての進出を見ると、やがて西太平洋での覇権を求め、それ以上の軍事大国になろうとしているように思われる。というのも、中国共産党が行ってきた対外軍事オプション(朝鮮戦争、中印戦争、中ソ国境紛争、西沙作戦等)を分析すると、作戦の前兆として大衆運動やキャンペーンが行われ、共産党内で権力闘争が生起していたという、内政面上の特色がみられる。

 かの国は「革命は銃口から生まれる」とのイデオロギーが継承されており、政治と軍事が補完関係にある。したがって権力闘争が勃発すると、政治は国民の求心力を高めるため、領土紛争・民族問題を強調して軍事に道を開く。軍事はその能力を誇示し拡大するため、民族や領土の対立を利用してナショナリズムを高揚させる。現代のそれは、建国時の熱気や目標意識の覚醒という大衆の不満を逸らせる段階を過ぎ、国家基盤の成熟期にみられる他国に対する優越・驕り・要求を目指すもので、統治の引き締めや舵取りに用いられる。

 専制国家の指導者にとって領土問題を絡めた瀬戸際政策は、リスクが少なくコストが低い割りには、得るものが多いと考えられている。即ち、歴史的な経緯から国民の戦意高揚は得やすいし、戦略要点でないために大国の干渉は受けにくく、戦闘を局地に限定して使用兵力を限定できる。また、一般住民や構造物が少ないことから作戦の制約は少なく、最新兵器の実験や軍部の支持獲得・士気高揚に役立つ。従って国境問題や離島地紛争は、クラウゼヴィツのいう「他の手段をもってする政治の延長」となりやすい。

 中国軍は、フォークランド紛争について非常に高い関心を示し、1999年に国防大学が『解放軍報』に論文を掲載している。内容は、「74日間の戦争で英軍は大規模な特保別混成艦隊を組織した。その中には56隻の民用船舶があり、英軍が戦争に勝利するうえで大きな貢献を果たした」と評価し、最後に「国家の利益と安全を守るためには、平時・戦時結合の強大な民用船隊を建設し、国家経済の発展と国防建設の戦略措置を促進する」と強調した。(平松茂雄)これは、台湾を含む周辺島嶼への渡海・上陸作準備の一環(南・西沙諸島・尖閣を含む)で、1990年代に民用船隊(第二海軍と位置づけ)それを検証する大規模な演習を行ない、2010年2月には『国防動員法』を成立させ、民用船舶・航空機の徴用体制を確立した。

喜田 邦彦
 6 区 隊
 職種:普通科

 日本安全保障・危機管理学会主任研究官として、執筆活動を
続け、ディフェンス誌等に多くの論文を発表している。
この記事は、内閣調査室が後援する雑誌「インテリジェンス レポート」
に投稿の論文です。一読の価値があります。 (渡辺 注)

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