島嶼防衛における危機管理

    ―フォークランド紛争と尖閣問題―
2 国防態勢―軍備の効率化という落とし穴

(1)  政権交代と政策転換
     
 英国は20年近くアルゼンチンと交渉を続けたが、強硬な態度を取り続けてきたわけではない。第二次大戦後の英国は、植民地の独立が相次ぎ、ポンドの価値は下落し、軍も撤退を余儀なくされた。特にフォ諸島は、本国から余りにも遠く、経済・軍事的価値は低かったため、100名程度の海兵隊員をフォ島本土に駐留させ、無人島・南ジョージア島には南極観測隊員30名を常駐させていたにすぎない。初期の主権交渉で英国は、「島民の意思尊重」という態度をとり、島民のアルゼンチン帰属に理解を示していた。アルゼンチンもまた、貧しい羊飼の島民は経済的恩恵を受けやすいアルゼンチンに帰属すると考え、「返還後の住民利益に十分配慮する」と保証した。

 その結果、両国は1973年に「フォ本島のインフラ整備協定」を結び、これに基づきアルゼンチンは 900トンもの資材をもって、空港・道路の整備を開始した。しかし、アルゼンチンの期待や思惑は裏切られた。同国の内政不安定化と軍事政権の発足から、島民はテロと失業とインフレがはびこるアルゼンチンへ帰属願望を萎えさせた。

 第二の原因は、1979年にサッチャー率いる保守党が政権を奪回し、フォークランド問題を島民生活の向上より「英国の威信・主権」という原則から見直したことによる。労働党政権末期の英国は、主権をアルゼンチンに委譲したうえ、英国が行政権を租借する「限定委譲」を模索していた。しかしサッチャー政権は、「限定委譲」の他にも、香港のような「期限つき租借」、「現状凍結=主権保持」のオプションを準備し、これらの案を「フォークランド島民議会」に諮った。その結果、古い世代の住民は「英国への帰属」を望み、若者たちも当面は「現状凍結」を期待していることが判明した。これを知った英国議会は、これまでの「限定委譲」交渉は領土主権や島民意思を無視していると猛烈に反対した。そこで、国論統一は難しいと見たサッチャー政権は、それまでの方針を転換し、主権問題の先送りをアルゼンチン提案した。既に先行投資を行ってきたアルゼンチンが、苛立ちと怒りをあらわにしたことは言うまでもない。

(2) 軍備縮小と対処能力の低下

 サッチャー政権は領土主権に固執する姿勢に転換したが、国防面ではそれと矛盾する軍備縮小という過ちを犯した。「英国病」といわれる経済力低下のもとで、国防政策は、@戦略核戦力の保持、A北大西洋での有力海軍の維持を柱とし、「軍備の効率化」という名目でポラリス原潜の退役とトライデントの米国からの購入、小型で効率の高い艦艇の導入で人員・任務の縮小を打ち出した。そして、欧州から離れた地域への軍隊派遣を二次的役割に引下げ、空母をオーストラリアに売却して国防費削減計画に踏み切っていた。

 さらに翌年(1979年)、アルゼンチンの「フォ本土侵攻計画(機密)」を入手した際も、緊急部隊を派遣する以外の施策はとらなかった。労働政権が作成した防衛計画が、「地上部隊の駐留は高くつくので、常駐部隊の増強策はとらない」と決定していたためである。サッチャーは1981年に友人に送った手紙で、「フォークランドの防衛には、艦艇の派遣と駐留する80名の海兵隊だけで大丈夫」だと、したためていた。こうした状況で、「英国は離島を守る決意が低下している」と思わせる事態が続いた。先ず、南ジョージア島にある南極観測隊基地が、財源難のために廃止の対象になった。これは後に、フォークランド総督府が記念切手の発行で利益を得たことによって維持されることに変更されたが、アルゼンチンは英国の考えがぐらついたと受け止めた。

 次いで、フォークランド海域の警備を担当する哨戒艦エンデュランス号の除籍が問題になった。同船は5年も前から国防費削減の対象となっていたが、外務省と官邸はそれまで首をたてに振らなかった。ところが1981年、サッチャー首相はノット国防相の意見に同意し、経費削減の一環としてエンデュランス号の除籍を決定した。アルゼンチン側はこの廃船の動きに注目した。それは、在英アルゼンチン大使館が、「この決定は英国が南大西洋地域に関心を失いつつあることを示すものか」と、英外務省に問い合わせたことからも明らかである。こうした一連の事件からアルゼンチンは、「英国のフォークランド防衛意図は低下した」と判断したのである。

(3)防衛意図と能力に対する疑念

 経済・社会の行き詰まりの下で行われた英国の政権交替は、「英国病」打開を期待する国民の意見を反映したもので、保守党が軍事的必要性より経済的効率性を優先し、「国防政策の見直し」を行った。サッチャーは回顧録で、「軍備の効率化」が紛争を招いたとする考えを「後知恵」だと指摘し、「国防費の使用効率を改善するため、広範な見直しは必要不可欠だった」と弁明している。

 だが問題は、離島防衛の意図と能力について、アルゼンチン側に疑念を抱かせたことである。グローバルな核戦略や、リージョナルな欧州戦略を重視するあまり、ローカルでマイナーと考える局地作戦の対処能力に目をつぶり、代替え機能を新たに準備しなかった。その結果ガルチェリは、英国の「国防政策見直し」や一連の事件を、「フォークランド問題を武力で解決する好機」だと捉えたのである。武力によって決着がついた翌年、英国防大臣が議会に報告した『フォークランド会戦の教訓』で、「国防の優先事項が対ソ脅威にあることに変わりはないが、資源配分にあたっては慎重であらねばならない」と総括している。そして、この紛争で失われた航空機・艦艇等の強化・補充を計ると共に、島諸守備部隊の増強・強化、空母インビンシブルの売却中止、哨戒艇エンデュランスの現役続行を打ち出し、国防政策を軌道修正した。

 ちなみに、そうした英軍の欧州戦域外への派遣能力向上施策が、1991年の湾岸戦争での多国籍軍への参加や、バルカン半島へのNATO共同軍派遣に、大きく貢献している。日本でも、政権交代における政策変更が、中国に誤解や疑念を与えたと思われる。まず、中国による国境周辺における石油開発問題を放置した。次に新政権は、対等な日米関係、普天間の国外移設、防衛費の削減を目玉とした。極めつけは、就任直後の北沢防衛相が、自民党政権が検討していた与那国島への部隊配備計画を反故にしたことである。鳩山首相の掲げる「友愛の海」「東アジア共同体」構想を踏まえ、「いたずらに隣国を刺激する背策はいかがなものかという気がする」と言い放った(2009.9.25)のである。翌年9月、中国漁船体当たり事件が起こり、同年年末、防衛相は新防衛大綱の重要施策として陸自隊員100名の配備を盛り込んだのである。


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