島嶼防衛における危機管理

    ―フォークランド紛争と尖閣問題―
3 情勢判断―主観を排し最悪を予想せよ

 この紛争はのちに「起きなくてもよかった紛争」「抑止に失敗し、奇襲を受けた紛争」と呼ばれている。サッチャー首相に「アルゼンチン軍の上陸近し」が伝えられたのは、侵攻の5日前である。奇襲を受けた最大の原因は、情勢判断のミスであり、抑止対応を取らなかったことによる。下院でそれを追及されたサッチャーは、「侵攻前段階における政府の責任と措置」に関する『フランクス調査委員会』を設置する事態に追い込まれた。調査委員会において外務省は、「3月29日までは、軍事政権側に侵攻意図はなかった。したがって侵攻情報を入手できるはずがない」と主張し、判断ミスを認めなかった。だがそうなると、アルゼンチンは侵攻意図を確立してわずか48時で出帥準備を整え、将兵を軍艦に搭載し、フォ島に向かったことになり、物理的に不可能である。外務省は早い段階で意図をつかんでいたのであり、情報評価を誤った・情報操作されたことはまちがいない。

侵攻1年3か月前(1981年初頭)
 外務省の情勢判断は、アルゼンチンが行動を起こす可能性は否定できないものの、侵攻は最後の切り札として温存し、@国連での抗議申し入れ→Aフォ島に対する経済封鎖→B近海での示威行動→C南ジョージア島の占領と、効果を綿密に計算しながら段階的に圧力を加えてくるとみていた。
しかしブエノスアイレスの英国大使館は、「軍事政権が強硬策をとる可能性は高い。特にタカ派の海相はフォ島奪回の野望を抱いている」と、本省に警告していた。

侵攻3か月前(1982年1月)
 アルゼンチンが交渉再開を要求したが、引き伸ばしを図る英外務省は積極的反応を示さなかった。要求を撥ねつけられた軍事政権が、態度をがらりと変えたのはこの時点で、アルゼンチン高官が米国に強硬手段をほのめかし始めた。

侵攻1か月前
 アルゼンチンは英国の交渉態度を強く非難するコミュニケを発表し、新聞が猛烈な反英キャンペーンを開始した。現地の英大使館は、「軍事政権が強硬策をとる可能性が高い」と本国に報告したが、本省はそれを「オオカミ少年」だと受け止めた。サッチャー首相は「抑止措置を考えるべきでは」と外相に勧告したが、1977年の艦艇派遣の例を検討した外相は「原潜派遣は交渉を破綻させる」と報告して見送った。原潜のフォークランド到着には2週間を要するので、この時点でこの抑止措置がとられていれば、紛争は回避出来たと言われている。後に下院でこれが問題になった。

侵攻2週間前
 アルゼンチンの屑鉄回収業者が海軍の補給艦で南ジョージア島に上陸し、英国の反応を探った。だが英外務省は、それらに対し紳士的な抗議は行ったものの、事態が発展した場合の報復行動については一切警告しなかった。

侵攻10日前
 ブエノスアイレス駐在の英国情報機関が、「海軍の大規模演習はフォ諸島侵攻の前触れ」として、侵攻は4月上旬とロンドンに報告した。だがローデシア問題を抱える政府は、それをマイナーだとみなし、『海外・国防委員会』に報告しなかった。

侵攻1週間前
 アルゼンチン軍による南ジョージア島上陸のニュースがロンドンに転送された、しかし正規のルートには乗らず、首相には届かなかった。国防相は、緊急対処計画の修正と所要経費の捻出について、『国防・海外委員会』で協議すべきだと進言したが、外務省は「アルゼンチン海軍にタカ派ムードは高まっているものの、政府全体に侵攻の意図は見えない」と否定した。

侵攻5日前
 統合情報委員会は「アルゼンチンが侵攻作戦を考えている模様」と、それまでの評価を大きく修正した。アルゼンチン海軍の通信傍受に成功し、続々とフォ島侵攻をうかがわせる情報が届き、確認が取れたというわけである。この時点で原子力潜水艦の派遣が決定されたが、「侵攻すれば武力で報復する」との警告もしないまま、サッチャーは奇襲事態に突然放り込まれ、一気に対処行動を決意したのである。

侵攻3日前
 アルゼンチン空母の方向変換から、英国防相はフォ島への侵攻を確信し、首相官邸に急報する一方で、機動部隊の派遣に向けて準備を開始し、国防省内に作戦本部を開設した。しかし英外務省は、ウルグァイとの合同演習との見方を捨てなかった。

侵攻2日前
 英国はレーガン米国大統領に電報を打ち、「ガルチェリ大統領に侵攻を止めるべく直接話をしてくれないか」と頼み込んだ。しかし「侵攻するなら武力で報復する」との警告は発しておらず、未だ外交工作に軸足を置いていた。万一を想定する国防相は、フォークランド総督に対し「アルゼンチン潜水艦の接近」を警告した。

侵攻前日9時30分
 英外務次官が「アルゼンチンが明日、侵攻する模様」と首相に報告。首相は、フォークランド総督への緊急連絡を指示。現地にいた79名の海兵隊員は、機密書類の焼却と応急築城等の、あわただしい準備を開始した。

侵攻当日(4月2日)2時15分
 レーガン大統領から「ガルチェリは作戦中止を拒否し、侵攻決意を固めている」との電報が届いた。外交工作が絶たれた瞬間である。午前4時15分、現地総督は島民に対し非常事態を宣言。午前9時25分、総督は万策尽きて守備隊に降伏を命令。午後7時半、臨時閣議か開かれ、機動部隊の出港を決定した。


 結局、「奇襲を受けた屈辱」と「情報評価ミス」の責任から5日にキャリントン外相が辞任し、「アルゼンチンの侵攻意図の察知」や「対応措置の遅れ」という政府の不手際の追及が『フランクス調査委員会』で始まった。年末に提出された報告では、「侵攻作戦は1981年12月、海・陸軍トップによって決定されたため、意図の察知は困難だった・・・侵攻は予想も出来なければ、予防も出来なかった」と結論づけられていた。これに対し議会やマスコミは、「身内(政府)の責任追求に甘い」「政府が十分な対応策をとっていれば、奇襲は避けられたはずだ」とおさまらなかった。日本でも、中国漁船体当たり事件を仙谷長官が取り仕切り、安全保障会議にかけることも、閣議に諮ることもなく、首相の外遊中に処理を決定した。参院の問責決議は当然である。

 更に英国では、「現地大使館の警告がなぜ生かされなかったか」という点が問題になった。原因の第一は、海外情報を一元的に評価する総合情報委員会が、情報量の多さと優先順位に関する誤判断から、アルゼンチン情報を重視しなかった点である。情報の一元化や組織の統合化は効率的に見えるが、評価のチェックが甘くなり、思考の幅が狭くなる逆に、日本の場合は省庁ごとに情報活動が行われ、いざというとき「とっておきの情報」を持ち出し、存在意義を競いあう。これは、情報の効率的な収集・分析・評価という原則からすると有害だが、競い合いで情報の質が上がるというメリットはある。

第二の問題は、政策決定者がすでに特定の結論(現状維持)を有しており、情報部がもたらす評価内容を変更させるよう動いたことである。情報部の評価を無視したのでは自分たちの責任や政策根拠が疑われるので、情報部の結論を規定の方針や政策に沿う内容になるよう、各種の圧力(予算と人事)を加える。こうした現象は、イラク開戦に踏み切った米国ブッシュ政権や、ビデオを秘密・非公開とした仙谷官房長官にもみられた。

 第三の問題は、先入観にとらわれ、アルゼンチンが段階的に行動を強化し、その意図を警告するはずとの前提から抜けきれなかった。脅威の評価にあたって、軍事関係者は相手の能力を中心に評価するが、政治関係者は能力より意図に注目し、執拗に相手トップの意図解明を重視する。胡錦濤主席に大訪中団を送り込み、戦略的互恵を強調してきた民主党政権は、危機管理の原則が「主観を排し最悪事態を予想せよ」ということを学んでいなかったようだ。

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