中埜和男(和童)
幹候:8区隊
 職種:通信科


「県尼37会」という昭和37年に兵庫県立尼崎高校を卒業した同窓生の会が毎年3月7日に尼崎市で行われています。
同窓会で尼崎に行ったついでに墓参りをしたり、昔住んでいた家や学校を訪れたり、近くの町を観光するのが楽しみですが、今年は再建された尼崎城を見て、その後、県立尼崎高校付近の歴史を振り返り、同窓会を楽しみ、翌日、比叡山坂本に住む姉を訪ねておしゃべりを楽しむことにしました。

*** 尼崎城 ***

尼崎城は元和3年(1617年)戸田氏が築いた後、青山氏、松平氏が城主となって幕末まで続き、明治6年(1873年)の廃城令によって取り壊されました。

あれから145年、旧ミドリ電化(現エディオン)の創業者の安保詮氏が「創業の地に恩返ししたい」と約10億円の私財を出して、天守を再建して尼崎市に寄贈してくれました。また、「ふるさと納税」で多くの人が維持費を提供してくれて、尼崎に観光客を呼ぶ新しいシンボルになることが期待されています。

梅田から阪神電車で慣れ親しんだ阪神尼崎駅に近づくと、今まで目にしたことのない景色が現れました。「これがあの尼崎城なのか!」と感情がグッと盛り上がりました。駅を出て、お城に向うと「ムム!工事中じゃないですか?」

 

尼崎城の一般公開日は3月29日で、20日ほどフライングしてしまいました。只今最終の仕上げの真っ最中です。

私の記憶ではお城はガスタンクの跡地に建ったのでは?と思って、お城のすぐ近くに建っている図書館で聞いてみました。
親切な職員の方が「お城は県立病院の跡地に建っています。ガスタンクは阪神尼崎駅の反対の方向にあった筈です」とい言われました。そして古い地図を見せてくれて、「ここが県立病院で、今、お城が建っている場所です。私はこの病院に入院していたので間違いありません」と説明され、完全に納得しました。私の60年前の記憶は崩れていました。

尼崎城は元和3年(1617年)、戸田氏鉄が5万石で入封し築いたもので、3重の堀を持ち、本丸には2重の付櫓を2棟付属させた複合式の四重天守と3棟の三重櫓が上げられたそうです。

 

図書館の横に契沖(けいちゅう)阿闍梨の碑がありました。契沖は江戸時代中期の真言宗の僧であり、尼崎藩の藩士の息子として生まれ、水戸光圀の命で「万葉集」の研究をしたり、彼の研究態度が本居宣長に影響を与えた人だそうです。

図書館の直ぐそばに「桜井神社」があり、改修工事をしていたので、尼崎城に関係があるのかなと入ってみると、大いに関係のある神社でした。
ご祭神は「桜井信定公他歴代藩主」とありました。尼崎城の廃城後、歴代藩主の遺徳を讃えるための建立した旨の案内がありました。尼崎城を築いた戸田氏とどんな関係にあるのだろうと思って調べてみると、戸田氏の後は、青山氏4代、そして正徳元年(1711年)桜井松平家の松平忠喬が4万6千石で入り、以後桜井松平家の支配が7代と続き幕末を迎えたそうです。
桜井松平家は、徳川家康と先祖を同じくする松平庶流で、出身地の三河国碧海郡桜井村から桜井松平家と呼ばれていました。

 

桜井神社を出て、近くの寺町をブラつきました。
有名なお寺が沢山並んでいましたが、深入りすると同窓会に遅刻しそうなので、駆け足で失礼しました。

 

 

寺町を抜けて、尼崎中央商店街に戻ってくると、「尼崎城グランドオープン」の幕が張られており、町起こしの熱気が伝わってきました。

中央商店街を抜けると先程スタートした「阪神尼崎」駅前広場で、ここは阪神タイガースが優勝した時によく中継されています。(滅多に優勝しませんが・・・)
昔、ここの広場には植え込みは少なく、中央に高い柱があってその上に白黒テレビが置かれて、力道山とルー・テーズの試合があった時などは黒山の人だかりでした。

 

***県尼37会***

阪神尼崎駅から各駅停車で1駅の所に「大物(だいもつ)」駅があり、私が卒業した「県尼」はこの「大物」にあります。
同窓会が始まる前に付近を散歩してみましょう。

駅を出ると、すぐの所に「大物崩れの碑」があります。
戦国時代、この付近で赤松政祐・細川晴元・三好元長の連合軍と、細川高国・浦上村宗の連合軍が闘い、細川高国が挟み撃ちを受けて戦局が崩れて滅亡につながった。そこから地名とあいまって「大物崩れ」と呼ばれるようになったそうです。

 

大物は古くは大物浦と言われ、海上を運ばれた物資がここで川船に積み替えられて都へ運ばれる重要な港で、また西国を目指す人々にとっての海の玄関口だったそうです。
能や歌舞伎で人気の演目である「船弁慶」で義経一行が船出をしたのが大物浦でした。

大物駅の海側すぐの所に「大物主(おおものぬし)神社・宗像東宮」があります。
ご祭神は大物主大神(大国主命)、宗像三柱大神(市杵島姫命、田心姫命、湍津姫命)で、創建は7世紀初めですが、市杵島姫命は後に平清盛が安芸宮島の厳島神社から勧請したそうです。境内に「義経弁慶隠家跡の碑」があります。

 

「県尼」は阪神電車より北の方、阪神国道(国道2号線・山陽道)の近くにあります。
阪神国道には昭和49年(1974年)までは阪神国道電車が走っていました。

 

当時の「県尼」は就職コース・文系進学コース・理系進学コースに分かれて、1学年9組で400人くらいの学生数でした。同窓会総会は卒業後50周年で終了し、今は有志で行っていますが毎年60人くらいが参加しています。
私は理系進学コースで、クラスに女子が一人もいなかったので、当時は男子校のような気持でいましたが、今では女子高に間借りをしているような気持ちになっています。

     

60名余りの同窓生が再会を喜び、よく食べて飲んで喋って、最後に校歌、応援歌「熱風」、応援歌「名門」を歌って1次会を終了しました。

 

引き続き、同会場の22階で2次会を開催し、おしゃべりタイムを楽しみました。

     

私達が育った頃、尼崎の町は工場が多く、「煙の都」とか「東の川崎、西の尼崎」とか言われていましたが、今では工場から煙も出なくなり見違えるようにきれいになって、驚かされます。



まだまだ名残惜しい気持ちはありましたが、3次会はカラオケや飲み会に三々五々前進しました。

***日吉大社***

翌日、湖西線「比叡山坂本」に住む姉を訪問しました。毎年1回は訪問して昔話をするようにしています。
以前、明智光秀の坂本城址や、比叡山延暦寺を訪ずれた時の記事をアップしましたが、その時「日吉大社」の前を通り過ぎて参詣しなかったのが心残りだったので、今回はじっくりお参りすることにしました。

 

日吉大社への参道を進んで行くと、青色の幟が風にはためいています。
2020年の大河ドラマは「明智光秀」だそうですね。私の得意とするジャンルです。
参道を進んで行くと山の頂上付近に「ポツンと二軒家」が建っているのが見えました。
「えらく高い所に建っているけど、あそこは延暦寺だろうか?日吉大社だろうか?」などと考えながら歩いていました。

 

前回はこの鳥居を横目で見ながら、左に進路を取り、比叡山延暦寺に行ってしまいましたが、今度は真っ直ぐ日吉大社へ。
案内図を見ると「ポツンと二軒家」は日吉大社の奥の院のような「三宮(さんのみや)神社」と「牛尾神社」でした。

 

日吉大社は、約2100年前、崇神天皇7年に創祀された、全国3800余の日吉・日枝・山王神社の総本宮です。
平安京遷都の際には、この地が都の表鬼門(北東)にあたることから、都の魔除・災難除を祈る社として、また伝教大師が比叡山に延暦寺を開かれて以来、天台宗の護法神として多くの方から崇敬を受け、今日に至っています。

元亀2年(1571年)、織田信長の比叡山焼き討ちにより日吉大社も灰燼に帰し、現在見られる建造物は安土桃山時代以降、天正14年(1586年)から再建されたものです。
豊臣秀吉と徳川家康は山王信仰が篤く、特に秀吉は幼名を「日吉丸」といい、あだ名が「猿」であることから、日吉大社の復興に尽力しました。

東京の赤坂「日枝神社」は徳川家康に愛された神社ですが、文明10年(1478年)、太田道灌が江戸城築城にあたり、川越の無量寿寺(現在の喜多院・中院)の鎮守である川越日枝神社を勧請したのに始まると云われ、家康が江戸に移封されたとき、城内の紅葉山に遷座し、江戸城の鎮守としたそうです。
先ずは西本宮にお参りしました。

 

西本宮の祭神は大己貴神(大国主神)で、大津京遷都の翌年である天智天皇7年(668年)、大津京鎮護のため大神神社の神が勧請されたといわれています。
昔から日吉といえば猿と言われ、魔除けの象徴として大切に扱われるようになったそうです。「まさる」は「魔が去る」「勝る」に通じ、大変縁起のよいお猿さんです。

 

社務所の巫女さんに三宮神社と牛尾神社への道筋とおおよその所要時間をお聞きすると30分程度で登れるけれど、雨上がりなので足元に気を付けてくださいとのことでした。
往復1時間なら何とかなるだろうと思って登ってみることにしました。

 

境内は水清く、神の存在を感じられる世界が広がっていましたが、頂上への道はつづら折りの連続で、石段も段差が大きく汗みどろになってしまいました。
そう言えば私も後期高齢者だったことを思い出しました。

 

そして遂に「二軒家」に到着しました。
ここは牛尾山(八王子山)山頂の磐座を挟んだ2社(三宮神社・牛尾神社)で、崇神天皇7年に創祀されたものとも伝えられています。

 

さて、ここまで汗だくで登って来たご利益はなんでしょうか?
神々しいまでの琵琶湖の姿でした。さすが日本一ですね。

 

 

山を下りて、東本宮にお参りをしました。
東本宮は、牛尾山山頂の磐座を挟んだ牛尾神社と三宮神社のうち、牛尾神社の里宮として創祀されたものとも伝えられています。なお、三宮神社に対する里宮は西本宮にある樹下神社です。

 

東本宮の祭神は大山咋神で、八王子山の磐座(金大巌)を祀る原始信仰の社だったのではないかと考えられているそうです。

 

日吉大社を十二分に堪能し、ヘトヘトになって姉の家にたどり着くと、姉は昔に変わらず優しく酒と食事でもてなしてくれました。
もし、来年も同窓会に参加できるなら、ぜひ参加したいと思っています。

 
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