中埜和男(和童)
幹候:8区隊
 職種:通信科

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             マージャンと私

            

 私がマージャンを始めたのは30歳の時、やや遅いスタートでした。その後の展開は勝負としては、正直言って負け続けでしたが、マクロに捉えると勝ったと言えるでしょう。
今、古希を迎えるにあたって、「私にとってマージャンとは」を総括してみたいと思います。


マージャンを始めたキッカケ

 私がマージャンを始めたのは陸自通信学校のAOC(幹部上級課程)入校中、昭和48年のことだった。同じく入校中のFOC(幹部特修課程)学生との対抗戦に参加するため、ルールを俄かに勉強することからから始まった。FOCの学生は我々より7〜8歳年上で、しっかりマージャンの経験もあり、結果は見事な敗北であった。

 しかし、これがいいキッカケになった。マージャンには勝つための原則もあるようだが、ついにマスターすることなく何十年も過ごしてしまった。しかし、先輩・友人との交遊はわが人生を精神的に豊かにしてくれたし、マージャンの展開や、ツキ・流れなどはいつまでたっても解明できない不思議さに満ちている。


現役時代のマージャン生活

 マージャンを本格的に楽しんだのは陸幕勤務時代で、35歳前後だった。器材班の班員として目の回るほど忙しい中にもマージャンを楽しむ時間はあった。六本木檜町にあった陸幕の器材班では昼休みはブリッジ、夕方から夜にかけてはマージャンが大流行していた。班では勝敗の点数を計算して月末に清算する方式で、清算金の中から天引きをして寿司をとって宴会を開いた。私は弱かったので常に支払い側だったが、上限制限付きで一家の破滅もなかったし、宴会の寿司も私の奢りだという変な自負もあった。
 班旅行で箱根に行った時、一睡もせず、温泉にも入らずマージャンをし、箱根から小田急で新宿まで帰ってから、もう一勝負をして終電車ギリギリに帰ったこともあった。

 陸幕勤務を終え、地方での勤務中には殆んどマージャをすることはなかった。メンバーが限られ、強者と弱者が固定してしまうので、マージャンの持つ偶然性の魅力が失われるからだった。
    
 45歳前後に器材班長として檜町の陸幕に再び戻って、マージャンを再開した。勤務時間が終わると、六本木の町で勤務仲間達と地下鉄の終電ギリギリまでマージャンを楽しんだ。たまに、最後のゲームが長引いたりして終電を逃してしまった時などは、勤務場所に戻った。そこでは班員がまだ仕事をしたりダベッたりしていたが、班長が負けて泣きそうな顔をして舞い戻ってきたときには、やさしく組立ベッドを準備してくれた。

 私はマージャンが弱いのを自覚していたので、負け方が予測の範囲内であれば「こんなものだ。」と納得していたし、たまに偶然の成せる業で大勝したりすると、その満足度は並大抵なものではなかった。これが35年も負け続けても試合放棄をしない原動力になっているようである。


I先輩の思い出

 I先輩はM大学の出身で、学生時代にハングリーなマージャンをしてきた歴史があり、滅茶苦茶強い。その強さの秘密の一端を教えてくれたが、「弱い相手とプレイをする。」ということであった。このことは十分納得できる。

 I先輩から金言を聞いた。「マージャンが好き。弱い。負けても機嫌が悪くならない。金払いが良い。」こういう人を誘えばいいんだと言われたが、まさしくそれが私だ。
 私の生涯勝率は2割5分、1勝3敗くらいと思っているが、私にとってマージャンとは、負けても機嫌が悪くならないよう自分を鍛える、貴重な人格陶冶の場であったと評価している。

 私はI先輩には負け続けていたが、「そのうち、I先輩がボケて来れば、チョンボもしてくれて、勝つチャンスも出てくるだろう。」と思ってプレイを続けてきた。しかしI先輩は「70歳になって、兄弟、友人たちが次々と亡くなって、マージャンを続ける気力が無くなった。」と言ってさっさとマージャンを止めてしまった。私は永遠に勝つチャンスを失ってしまった。

 それでも私はI先輩を恨んでいない。それは私が自衛隊を退官後、I先輩が私の就職口を2度も探してくれたからだった。長い間、フリコミ続けたが、就職後、私が紹介してもらった会社から頂いた給料と比べるとそんなものは微々たるものだったと言える。I先輩はその鋭い観察力で、私が再就職先でも愛されるということを読み切ってくれたのだと思っている。


U先輩・K先輩の思い出

 U先輩・K先輩はともに80歳前後の大先輩だが、まだまだ現役継続中である。そして、お二人とも強い。I先輩の金言通り、弱い私を誘ってくださる。1か月以上前から、予約の電話やメールが入ってくるので断り切れない。それぞれ月に1回程度であり、家庭を破壊するほどの致命傷にならないので、お付き合いをさせていただいている。

 若い頃、先輩達はマージャンが始まると、私達若いプレーヤーにビールや寿司を奢ってくれた。しかし終わった時には、私達は自分でビール代・寿司代を支払っているのに気が付くのが常だった。
 この先輩達とお付き合いするメリットは、自分の10年後の姿をイメージできるということで、生き残ってマージャンを継続しておられる先輩達は、ある種、伝説上の人物という気がするが、こんな人達に身近に接し、優しくかつ厳しい指導を受けられるのは大いなる幸せであると思っている。

 先輩世代は最近では、ガンと平然と付き合っているようだ。 1か月ほど呼び出しがなかった後、ジャン荘でそのあたりを聞いてみると「胃がんで入院をしていたので、1か月プレイできなかった。」と平然と言われる。ガンなんて全然怖くない、ダメになるまでマージャンを続けるのみと達観しておられる。


現在までの小結論

 残念ながら、私はマージャンでは後輩を育てることはできなかった。こんなに面白い、不思議なゲームを後輩に伝えられなかったのが唯一の心残りである。
私がマージャンを始めるにあたってルールを教えてくれた同期の連中、マージャンの厳しさと醍醐味を教えてくれた先輩や仲間達、そして何よりもマージャンを通じて人間の生き方を教え、導いてくださった先輩方に感謝して、現在までの小結論としたい。

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