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中埜和男(和童)
幹候:8区隊
 職種:通信科


中学校の同窓会が大阪で開かれるというので1泊2日の旅に出かけました。
旅に出る1週間ほど前に友人が「本能寺の変 431年目の真実」という本を貸してくれたのを読んでいたので、明智光秀の居城だった坂本城を訪ねてみようかと思いつきました。この本の著者は、明智光秀の子孫で、誤った光秀伝説がどのようにして生まれ、本当はどうだったのかを詳細に調べたそうです。
私と言えば、坂本には姉が住んでいて昼飯でもよばれて来よう、またそのついでに比叡山延暦寺にお参りしてみようか、またそのついでに比叡山の麓にある西教寺に明智光秀の墓があるというのでそこも見て来ようと、ほぼ無原則にイモヅル式の旅行を企画しました。

同窓会を3次会まで楽しんだ翌日、朝早く大阪のホテルを出発、JR湖西線で「大津京」の次の「唐崎」という駅で降りました。
ここが坂本城址の最寄り駅です。
琵琶湖の湖岸を歩いて行くと「唐崎神社」があったのでお参りをしました。

  

唐崎神社は近江八景の一つで、昔から「唐崎の夜雨」として、安藤広重の浮世絵でもしばしば描かれているそうです。
筝曲では山田流の山登萬和が「近江八景」を作曲しています。
近江八景は「粟津の晴嵐」「矢橋の帰帆」「瀬田の夕照」「三井寺の晩鐘」「比良山の暮雪」「堅田の落雁」「石山寺の秋月」「唐崎の夜雨」で、境内にある唐崎の松は3代目だそうです。 
湖ではのんびりと釣りを楽しんでいました。

  

唐崎神社から少し行くと、お目当ての坂本城址に到着しました。
坂本城は1571年(元亀2年)明智光秀が織田信長の命を受けて築城しましたが、1582年(天正2年)炎上し、その後、羽柴秀吉の
命により丹羽長秀が再建しています。
本丸・二の丸・三の丸があって、本丸は湖に面していたそうです。
明智光秀の像が立っていましたが、ズングリムックリな像でリアルに作ったのか、何か特別に意図して作ったのかと不思議に感じました。

  

光秀像のすぐ傍に「光秀の意地」の歌碑がありましたので、ちょっと紹介してみましょう。 (鳥羽一郎の歌) 

   これが光秀の本音にござります
   一寸の虫にも五分の魂
   やらねばやられる 戦国の掟
   わしは主(あるじ)を間違えたようじゃ

   美濃に生まれて近江に賭ける
   坂本城が命 男の夢を
   心変わりの信長さまに
   義理も恩義も情けもすてて
   俺も男の意地がある ・・・・・

  

坂本城址を見て、次は比叡山延暦寺に参拝します。
JR比叡山坂本駅を過ぎて、坂道を登って行くと日吉神社の鳥居が見えてきました。 道路沿いに由緒のありそうな建物が並んでいます。この「公人屋敷」とは何でしょうか?
公人屋敷(旧岡本邸)は、江戸時代に延暦寺の僧侶でありながら妻帯と名字帯刀を認められた「公人(くにん)」が住んでいた住居のひとつだそうです。

  

更に坂道を登って行くと、日吉大社の赤い大鳥居が見えてきました。
日吉大社は全国に約2000ある日吉・日枝・山王神社の総本社で、「日吉」は昔は「ひえ」と読まれていたが、今は「ひよし」と呼ばれているそうです。
伝教大師最澄が比叡山上に延暦寺を建立し、比叡山の地主神である日吉大社を、天台宗・延暦寺の守護神として崇敬したということですから、俗な言葉で言えば、延暦寺が借地人で日吉大社が地主さんのようなものでしょう。

更に坂道を登って行くと、「延暦寺学園比叡山高等学校」と書かれた立派な石碑がありました。
たまたまジョギングをしていたお嬢さんに「ここが高校野球で有名な比叡山高校ですか?」と聞くと「そうです」と誇らしげに答えてくれましたので、記念に一枚スナップを撮らせていただきました。
こんな坂道で毎日トレーニングをしていると足腰が強くなるはずです。

  

さて、坂本ケーブルの「ケーブル坂本駅」に到着しました。
昭和2年開業の日本一長いケーブルカーで全長2025mを約12分で結んでいます。

  

海抜654mの「ケーブル延暦寺駅」で降りると、琵琶湖の景色が広がっていました。
紀貫之もこの景色が好きで、この地にお墓があるそうです。

  

山道を登って行くと延暦寺の塔が見えてきました。
延暦寺に到着すると、一瞬で自分の浅はかさが分かりました。
昼食を姉と一緒に食べる約束をしているので、その前に30分ほどで延暦寺を見てこようと考えていましたが、さすがは世界遺産、日本の仏教のメッカ延暦寺は、最小限2日くらいかけないと見て来たと言えるものではありません。
とりあえず、有名な国宝の根本中堂を参拝することにしました。

  

根本中堂は延暦寺の総本堂で、伝教大師最澄が788年(延暦7年)に、一乗止観院という草庵を建てたのが始まりとされるそうです。
現在の根本中堂は、織田信長に焼き討ちされた後、徳川家光の命によって、1634年(寛永11年)から8年の歳月をかけて再建されたそうで、真っ黒な太いケヤキの柱26本で支えられています。

根本中堂の前に伝教大師最澄の子供の時代の像が建っていました。 随分賢い少年だったようですね。

  

続いて、大講堂を参拝しました。
お坊さんが法華経の講義を聞いて、お互いに問答をする学問修業の場だったそうです。
隣に平和の鐘があり、外人さんが鐘をついていました。

  

ここまで見たところでタイムアップ。 ケーブルカーは30分に一本ですので名残は尽きないのですが駅まで走って帰りました。

麓に降りて来ると、この辺りは比叡山延暦寺の門前町で、里坊が並んでいます。
やはり、延暦寺には里坊に泊まってゆったりと日数をかけてお参りするのが良さそうです。
外壁は「穴太衆(あのう)積み」でできているようです。
坂本の穴太を本拠地とした石工集団によって築かれ、手を加えない自然石の石面を上手に利用しています。

  

昼食までに、もう一か所行かなければなりません。明智光秀の墓があるという西教寺です。
西教寺はコチラという表示がありましたが、時間を節約するために近道を往くことにしました。 しかし目指す西教寺はなかなか出てきません。
焦る脳裏に、先程訪れた坂本城址にあった「光秀の意地」の歌碑の言葉が浮かんできました。 
   ・・・ わしは主(あるじ)を間違えたようじゃ
   そうだ・・・わしは道を間違えたようじゃ

ようやく西教寺に到着しました。 聖徳太子が創建した天台真盛宗総本山の名刹です。

  

妻木(明智)一族の墓がありました。
明智光秀は坂本城と地理的に近かった西教寺との関係が深く、寺を援助していたようです。
光秀の墓があるかどうかは確認できなかったものの、坂本城の落城後、明智一族に殉死をした人たちが供養されているということが書かれていました。
本能寺の変は、土岐氏一族の盟主だった明智光秀が一族の存亡をかけ、周到に準備をした大作戦だったのですね。

  

夏日の中をいろいろ見てきましたが、約1時間遅れで昼食にありつきました。
歩数計は25500歩を表示していました。 健康管理上からはやや歩きすぎでしょうね。 


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