中埜和男(和童)
幹候:8区隊
 職種:通信科


 5月のGWに館林の鯉のぼりを見に行ってきました。
東武鉄道伊勢崎線の区間急行で浅草から1時間ちょっとで到着。
館林の鯉のぼりは平成17年に5283匹の掲揚数でギネス世界記録に認定され、今でも世界一の鯉のぼりとして、毎年多くの鯉のぼりが飾られています。
このイベントは、鶴生田(つるうだ)川の水質が県内最下位になったことから、地元の有志が少しでも水質を向上させるきっかけになればと20匹ほど掲げたのが始まりだそうです。
せっかくの機会だったので、あわせて館林の街角をウォッチすることにしました。

 

 鯉のぼりは今年も市街地を流れる鶴生田川をメイン会場として、近藤沼公園、つつじが岡パークイン、茂林寺川、多々良沼の合計5つの会場で開催され、合わせて5,000匹以上の鯉のぼりが優雅に元気に泳いでいます。

 

 鶴生田川と城沼を城の守りとして取り入れた館林城は尾曳(おびき)城とも言い、戦国時代に築かれ、江戸時代になって徳川四天王の一人・榊原康政が石垣や天守を持つ近代的な城に造り変えたそうです。
館林は利根川を押さえる東北方面への要所として、また、徳川綱吉が五代将軍になってからは将軍を輩出した地として重視されました。
館林藩は比較的短期間で藩主が交代したり、世継ぎが亡くなり廃藩となって幕府直轄になったり、また復活したりと不安定な歴史をたどりますが、最後は秋元氏が藩主となって栄えました。

 城の建物の大半は明治7年に焼失しましたが、現在でも本丸、三の丸、稲荷郭、城下町などの土塁の一部が残されており、三の丸には土橋門が復元されています。

 

 城跡は市役所や公園、文化施設として利用され、親子連れがハナミズキ、桜、ツツジなどが咲く中で楽しく遊んでいました。

 

 館林はツツジでも有名だそうで、お城の前から城沼にかかる尾曳橋を渡ると「躑躅ケ岡(つつじがおか)」公園があります。
約1万株のツツジが植えられており、看板の説明を見ると「世界一と評されている」と書いてありました。

 

 公園内のツツジは、館林城の歴代城主から現在まで手厚く保護されており、樹齢800年を超えるヤマツツジの巨樹群が自然形のままで保存されています。

 

 城跡の公園の中に秋元邸別宅がありました。
旧秋元別邸は、明治末期に建てられ、秋元興朝(おきとも)とその子春朝(はるとも)が別邸として使用しました。
秋元興朝は、戸田忠至(宇都宮藩家老)の次男として生まれ、明治4年、旧館林藩主秋元礼朝の養子になり家督を継いだ華族・外交官でした。
 秋元春朝は毛利元功の三男として生まれ、秋元興朝の婿養子になり華族・政治家として活動しました。
庭にある彫刻は秋元春朝が投網をする像で、彫刻家毛利教武作の大正時代の作品です。

 

 公園の中に館林が誇る女性宇宙飛行士向井千秋さんの名前を冠した「向井千秋記念こども科学館」があります。
プラネタリウムも備えた立派な科学館で、65歳以上無料という事でゆっくり見学させていただきました。 館林から立派な後輩が育つといいですね。

 

 田山花袋も館林出身だそうで、旧家と記念文学館がありました。
こんな立派な文学館が建てられているのは田山家が代々の秋元藩士だったからでしょうか。
自然主義文学者の先駆けとなった花袋は、島崎藤村、国木田独歩、柳田国男らとの交友を結び、日本文学の近代化に情熱を注ぎました。
女弟子に去られた中年作家の男が、彼女の使用していた夜着に顔をうずめて匂いを嗅ぎ、涙するという「蒲団」の描写はなかなか味のあるものでした。

 

 田山花袋記念文学館のすぐ前に上毛モスリン事務所があります。
「モスリン」とは、戦前に、日本で大量に生産され、子どもの着物や長襦袢などに使われ、たいへん流行したウール生地です。
上毛モスリン株式会社は、館林周辺の伝統的技術である機織りを活かして近代的製織会社として明治29年に設立されました。 大正末期に倒産した後、共立モスリン、中島飛行機、神戸製絲と変遷しますが、いずれも館林の基幹産業として地域の発展に寄与してきました。

 上毛モスリン事務所の中に「人力車」が展示されています。
この人力車は館林市の名誉市民第一号の正田貞一郎(美智子皇后の祖父)が日清製粉の社長時代に使用していたものを寄付されたものだそうです。

 

 正田貞一郎さんの家業は正田醤油で、館林の駅前には正田記念館や正田醤油本社工場や研究所があります。 正田醤油は地元ではまだまだ現役です。
あいにく日曜・祝日は休館ということで外観のみになりました。

 

 旧城下町の大手町(旧鷹匠町)に田中正造記念館があります。
田中正造は現在の栃木県佐野市出身で、衆議院議員選挙に6回当選した政治家ですが、日本初の公害事件と言われる足尾銅山鉱毒事件を明治天皇に直訴した政治家として有名です。
館林は渡良瀬川と利根川の合流点にあり、洪水の度に鉱毒を含んだ洪水の被害を受けたそうで、田中正造は館林市の雲龍寺を鉱毒対策事務所として活動しました。

 その後、曲がりくねっていた渡良瀬川を真っ直にしたり、利根川と分離したり、渡良瀬遊水地を造ったりして洪水の被害を軽減することできました。
今も堆積場にはクロムや鉛を含んだ大量の土砂が堆積されており、今回の東日本大震災でも地崩れが起こり、鉱毒を含んだ土砂が渡良瀬川に流出したそうです。

 

 分福茶釜のふるさと茂林寺は館林から一駅行った所にあります。
分福茶釜ってどんな話だったのですかね。 私は証城寺の狸囃子と混同していましたが、証城寺の狸囃子は千葉県木更津市の證誠寺のお話なんですね。

 Wikipediaによると分福茶釜はこんな話で、少し長くなりますが紹介します。
古道具集めが一番の趣味である和尚さんが茶釜を買って寺に持ち帰る。
茶釜を見ると汚れていたので弟子の小僧さんに茶釜を磨くよう命じるが、洗っている途中に茶釜が痛がったので、和尚さんに報告する。
和尚さんは茶釜を水で満たし火に懸けたところ、何事もなかったので「雑念があるからだ」と小僧さんを叱る。しかししばらくすると茶釜が熱さに耐え切れず動き出したので気味が悪くなった和尚さんはたまたま近くを通りかかった貧しい古道具屋に茶釜を売ることにする。
古道具屋はその夜奮発して鯛を買うが、食べようとしたところ鯛がなくなっていた。古道具屋は途方にくれましたが、茶釜を背負ったタヌキが「魚を食べたのは自分です」と白状する。
同情した古道具屋はタヌキが元に戻れるまでの間家に泊めることにする。タヌキはお礼に、綱渡りをする茶釜で見世物小屋を開くことを提案する。この考えが成功して古道具屋は豊かになり、タヌキも寂しい思いをしなくて済むようになったという恩返しの話なんだそうです。

 

 茂林寺の北側には茂林寺沼が広がり、野鳥や湿原動植物の生息地になっています。
植物が枯れて堆積してできた泥炭層が5m以上になっており、湿原の北側には自然護岸の茂林寺川が流れ、6月下旬から8月にかけてヘイケボタルが見られるそうです。

 

 鯉のぼりやツツジにつられて一日中歩いて、帰り着いた時にはかなり疲れを感じていました。
歩数計は2万4千歩以上をカウントしていました。
ちょっと頑張りすぎましたね。

 
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