65歳になった頃、横浜に住む友人から「会社を立ち上げたんだけど、手伝ってくれないか?」と電話がかかって来た。
インドで開発した超小型コンピュータを日本で販売する会社で、週に一〜二回程度仕事するという話で、わが人生のファイナル・ステージを横浜で働けるのはロマンがありそうだったので即座にOKをしました。
軽くOKしてから10年近くになり、未だにクビにもされず働かせてもらいっていることに感謝して、記事をまとめてみました。

会社は「横浜・関内」にあって歴史を感じさせる建物が多く、私の体の中の「街角ウォッチャー」の血が騒いで天気の良い日には横浜散歩を楽しんでいます。
京浜東北線「関内」駅で降りるとすぐ駅前に「横浜公園」があり、この公園の中に横浜DeNAベイスターズの本拠地「横浜スタジアム」があります。この球場は2020年の東京オリンピックで野球のメイン会場になると聞いています。

「横浜公園」は明治9年に開園し、居留地に住む人たちが野球やラグビーやフットボールなどを楽しんでいました。
関東大震災の時には多くの避難者が集まったそうで、昭和4年には復興記念の野球が開かれベーブルースなどが試合をしたそうです。
球場周辺ではよく催し物が開催されています。
公園内の桜はヨコハマヒザクラ(横浜緋桜)という品種で、ソメイヨシノより少し早く咲きます。

  

公園には四季折々の花が飾られています。
公園を訪れた人達がきれいに咲いたチューリップをカメラやスマホで撮影しています。
また、和風庭園もきれいに整備されています。

  

横浜と言えば「横浜中華街」が有名ですね。
歴史を遡ると明治以前からあったようで、今も異国情緒が豊かでいつも賑わっています。
500店以上の店舗があり、日本で最大かつ東アジアで最大の中華街だそうです。
中華街の中に三国志で有名な関羽を祀る「関帝廟」があります。

  

ちょっと海岸の方に足を延ばすと「山下公園」に到着します。
「山下公園」は関東大震災で発生したガレキなどを使って海を埋め立てて、昭和5年に開園したそうです。
公園に「氷川丸」が係留されていますが、「氷川丸」は、日本郵船によって昭和5年に現在の三菱重工業横浜製作所で建造された1万トン級の貨客船で、太平洋戦争中は病院船として運用され、戦後は昭和35年まで北太平洋航路で運航が続けられました。

横浜港はペリー提督の黒船来航によって、1859年(安政6年)に開港しました。
「メリケン波止場」と言えば神戸の波止場が有名ですが、「横浜港大さん橋国際客船ターミナル」も「メリケン波止場」と呼ばれ、改築・増設を経て七代目になるそうです。
「横浜ベイブリッジ」をくぐって世界各国のクルーズ船が寄港する世界でも有数の客船ターミナルで、この日は、ちょうど「飛鳥U」が入港していました。

  

「横浜市開港記念会館」は大正6年に完成しましたが、関東大震災で全焼し、昭和2年に再建されました。
このタワーは「ジャックの塔」と呼ばれているそうです。
岡倉天心は1863年(文久2年)福井藩士・岡倉覚右衛門の次男としてこの地で生まれました。
覚右衛門は福井藩が開店した生糸を扱う貿易商店「石川屋」に赴任していたそうです。
天心は日本画改革運動や古美術品の保存、東京美術学校の創立などを行い、ボストン美術館中国・日本美術部長に就任したりしています。

  

神奈川県庁の本庁舎も貫禄があります。
この建物は関東大震災で焼失した旧県庁舎を再建する時に当時流行していた帝冠様式を取り入れて昭和3年に再建されたものだそうです。 このタワーは「キングの塔」と呼ばれているそうです。

横浜税関本庁舎も関東大震災で倒壊しました。
財政窮乏の中、税関の仕事は平屋のバラック建で行われていたそうですが、そんな時に大蔵大臣高橋是清が「失業者救済のため土木事業を起こすべき…」と提言して塔の高さ51mの税関本庁舎が昭和9年に完成しました。
このタワーは「クイーンの塔」と呼ばれ、先の2つのタワーと合わせて「横浜三塔」と呼ばれているそうです。

  

桜木町の駅前を再開発した「横浜ランドマークタワー」を中心とした「横浜みなとみらい21地区」が発展しています。
横浜赤レンガ倉庫は明治政府によって保税倉庫として建設されましたが、平成元年には保税倉庫としての仕事を終えました。
平成14年に赤レンガパークとして整備され、横浜みなとみらい21地区の代表的な観光施設としていつも賑わっています。

更に桜木町駅近くに55階建てのマンションとホテルを複合したビッグプロジェクトが進んでいます。
関内駅前にある横浜市役所もこの地区に移転してくるようで、まだまだ発展しそうです。

  

70階建ての複合ビル「横浜ランドマークタワー」は「横浜みなとみらい21地区」を代表する横浜の新しいシンボルです。このタワーはアメリカのヒュー・スタビンスという人が設計したそうですが、世界の七不思議にあったアレクサンドリア・ファロス島の大きな灯台に似ているような気がします。

その足元に係留されている「日本丸」は昭和5年に建造された練習帆船で、昭和54年まで活躍して多くの実習生を育ててきました。

  

関内と桜木町の間に「馬車道」というおしゃれな通りがあります。
この馬車道に「神奈川県立歴史博物館」がありますが、ここは「横浜正金銀行本店」でした。
横浜正金銀行は明治12年に、現金(正金)で貿易決済を行なう専門の銀行として創設され、世界でも有数の銀行に発展しました。
関東大震災と昭和大恐慌で大きな打撃を受けましたが、第二次世界大戦後GHQの指令による解体・清算まで続きました。
この建物は明治37年に建築されたドイツ風の建物で、ドームは関東大震災で焼失しましたが歴史博物館の開館に合わせて復元されたそうです。

赤いレンガの上にビルが建っているように見えるのが「横浜第2合同庁舎」で、農林水産省や防衛省の南関東防衛局をはじめ、国の機関が入っています。
この赤レンガの建物は、元は「横浜生糸検査所」だったそうで、関東大震災で被災し大正15年に再建されたそうです。
横浜第2合同庁舎はその横浜生糸検査所のイメージを残して、平成7年に高層棟の建設を含む大改築が行われました。

  

さて、私の勤務先は八重桜の並木が美しい、飲食店が並ぶにぎやかな関内の街の中にあります。
ここでちょっと「関内」について勉強してみましょう。
関内は江戸時代に埋め立てられた地域で、京浜東北線「関内」駅のすぐ近くにある吉田橋を関門として旧居留地などがあった海側を関内、伊勢佐木町などがある山側を関外と呼んでいました。
開港当時には武士と外国人との接触を避けるために武士は関内には入れず、馬車道は吉田橋から旧居留地に至る道だったそうです。
関内の町は碁盤の目のように区画され、弁財天町・相生町・末広町・駒形町・高砂町・住吉町・常盤町・尾上町・真砂町・羽衣町などのようにカッコいい名前が付けられました。

私は2011年3月の東日本大震災では、住吉町の雑居ビルの8階でコンニャクのように揺れる中で一歩も動けない状況を体験しました。
地震が少し収まった頃、ビルの壁がパラパラと落ちてくるのを避けながら「横浜スタジアム」に避難をしました。
しかし、グラウンドの上でごろ寝するのは寒すぎて一晩過ごせそうにもなく、雑居ビルに戻って机の下に潜り込み「天井が落ちてきて、ここで死ぬのかな」などと思いながら一夜を過ごしました。

  

私が勤めている会社は、みなとみらい地区にある「パシフィコ横浜」で開催されるエレクトロニクス・ショーに毎年出展しており、私もお手伝いしています。

会社にはインドから若い技術者も加入しています。
インド人技術者は優秀だと言われている評判の通りで、工科大学で学んだ女性技術者も働いており、彼らと一緒に仕事をしているとインドの持つ大きな可能性を肌で感じます。

  

外国人社員との交流も楽しみです。
インド人社員の家庭に招待されてカレー料理を頂いたり、南インドのケララ州出身者の祭りに招待されたりしました。
インド人の他にバングラデシュ人の社員もいます。
また、社員の宗教もヒンズー教、イスラム教、キリスト教、仏教と色々で、食事も豚肉がダメとか生魚がダメとかベジタリアンがいたりして、日本にいながら異文化体験を楽しんでいます。

  

1本の電話からスタートした横浜での仕事でしたが、身近に開国の歴史に触れたり、ダイナミックに変化する町の姿に接することができ、そして外国の人達と共に働くことができ、わが人生のファイル・ステージを飾る大変貴重な経験でした。


中埜和男 もろもろ三昧記へリンク

中埜和男 世界の旅へ


会員コーナーへ


トップページへ 

中埜和男(和童)
幹候:8区隊
 職種:通信科

もろもろ三昧記
横 濱 物 語