「えー台湾名物 何なんぞー・・・」 突然の大声に、一同びっくり唖然!そう「バナナの叩き売り」のはじまりだ。
思えば、防大学生の頃、長崎に就職した小学生以来の親友K君が、高校生の頃聞きかじった「バナナのたたき売りの一説が判明」と、手紙で教えてくれたのがバナナ狂いの始まりだった。
以来50年、宴会芸の十八番としていろいろな宴会・場所で幾度となくバナナを売り続けてきた。
中でも一番印象的だったのが幹候校時代、唐津海岸での水泳訓練の折、区隊対抗演芸会で、「バナナのたたき売り」を演じ、区隊優勝だけでなく、個人特別賞まで頂いた。
教官・助教はじめ総勢400人、こんなに大勢の前で演じたのは、これが最初で最後だった。
全区隊・候補生に披露したお陰で、以後「バナナの幸田」として一躍有名になった。
お陰でその後、演習場や出張さきで、顔も名前も知らないU区隊の同期生から声をかけられ、バナナ売りの効用(?)を実感した次第である。
結婚して間もない正月、湯布院の同窓会に参加した折、親友K君が披露したバナナの叩き売り見聞きした妻いわく「Kさんにくらべると、貴方のはまだまだ未熟だね」と酷評。 いやはやショックだった。
その妻に後年「バナナ売りの口上には下品な表現がアリ演ずる時と場所を考え、できればやらないように」と窘められた。そんなことから、一時期バナナの叩き売りを封印したこともあった。
ところが、昭和58〜59年頃、坂野比呂志という人が大道芸の功績で「芸術祭賞」受賞したと聞き「バナナの叩き売りも立派な芸術だ」と意をつよくした。以来、大威張りでバナナ売りを演ずるようになった。
バナナ売りは、通常4〜5分ものだが、ある年の不惑会では、幹事長から「時間がないので2分間だけ」と制限され、半分のところで「今日はこれまで!」 ところが翌年の不惑会で後半を演じ、2年がかりで完結した。
同期はありがたいものである。前年の未完を覚えてくれており、幹事殿と小生に要請してくれたのだ。
平成18年、幹候校で卒業・任官40年記念パーティーが開かれ、思い出の地での披露には感慨深いものがあった。
6年前「バナナ売り」を好まなかった妻が急逝した。
一人暮らしのあり余る時間を、ウォーキングやサイクリングで費やしていたとき、あるきっかけから「若葉会(居住地域の老人会)」に入会することになった。
初めての総会・懇親会でのこと。 議事は30分で終了。
挨拶と乾杯で懇親会が始まったが、特に女性陣の凄まじいお喋り。 30分過ぎても変わりなくただそれだけ。
先輩に伺えば、あと1時間もすれば、喋り疲れ、飲み物も尽き、お開きになるのを待つとのこと。
それではちょっと寂しいじゃない。 小生の宴会心がうごめき「宴会芸をやってもいいですか」と会長に申し出た。
突然始まった小生の「バナナ売り」に一同びっくり、唖然!茫然! それもそのはず、それまで宴会芸などやる人がいなかったとか。
さらに謹厳実直(?)な元自衛官が「珍芸」を始めたのだから。 一瞬、飲み食い、お喋りが止まり、静まって聞き入った。
実は、本物のバナナと新聞紙を丸めた棒を準備し、「買った!」と言ってくれる「さくら」をお願いしておいた。
何を隠そう、確信犯だったのである。
終わったら万雷の拍手と「アンコール」の呼び声。
内心大いに満足し、柳亭痴楽師匠の「つづり方教室」でアンコールに応えた。皆さん初めての宴会芸に大喜び。
以来、若葉会の「芸能部長」として、懇親会の度に一つか二つ「芸」を演じ続けている。
そのため、レパートリーは尽き「バカの一つ憶え」よろしく繰り返し演じるけれど、「バナナ売り」も「つづり方教室」老人世代に合っているためか、いつも楽しんで聞いてくれる。
かくして「バナナ売り」50年、こんな小生にもささやかな夢がある。
それは、今年5歳になる孫が晴れて成人した暁に、一緒に酒を飲み、そしてほろ酔い気分で「バナナ売り」を聞かせることである。
反対に悩みもある。 孫の成人の日まで、酒を飲み、「バナナ売り」を聞かせるほどに、元気を保持できるだろうか。
仮に「飲酒」「バナナ売り」が出来たとしても、平成20年生まれの若者は、戦中生まれの老人「芸」を、如何に評価してくれるだろうか。
よもや「無視」「否定」はないだろうが・・・。 今から悩んでも、仕様のないことではあるが。
(偕行社 喜田君から)
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「バナナの叩き売り」50年
幸田 武生君
7区隊