中埜和男(和童)
幹候:8区隊 職種:通信科
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コロナが明けて5年ぶりに「県尼37会」を開催しますという案内を受けていそいそと出かけてきました。「県尼37会」は昭和37年に兵庫県立尼崎高校を卒業した同窓生の会を3月7日に尼崎市で行っているものです。 同窓会のついでに墓参りをしたり、近くの町を観光するのが楽しみですが、今年は海岸地域にある貴布禰神社や工場地帯を見てきました。 翌日、以前は比叡山坂本に住む姉を訪ねるのを恒例行事にしていましたが、姉が施設に入所して会話が出来なくなってしまったので、名古屋で熱田神宮にお参りすることにしました。 *** 貴布禰神社・海岸工場群 *** 「阪神尼崎駅」から商店街を歩いて行くと、30分ほどで貴布禰神社に到着します。この時期は参拝者もいなくて静かな様子でした。 貴布禰神社は「尼のきふねさん」で親しまれる尼崎屈指のお宮です。かつて尼崎城主のご祈願所を務め、たびたび雨乞いの神事が行われてきた市内唯一の元縣社です。 戦後は工都・尼崎の守護神として信仰も篤く、毎年8月に行われる夏祭りは、約8万人の参拝客で賑わいます。 お祀りされているのは「高龗神(タカオカミノカミ)」で、京都にある貴船神社と同神です。 また「加茂別雷神(カモノワケイカヅチノカミ)」と「加茂御祖神(カモノミオヤノカミ)」が配祀されており、京都に馴染みのある神様ばかりをお祀りしていることから、かつての尼崎と京都の関係の深さをうかがい知れます。 神社の南門の前を阪神高速3号神戸線が走り、その南にAGS尼崎工場が広がります。以前は旭硝子という優良企業でしたが、AGSに名前を変えて世界的な企業になっています。昔のガラス製造会社の名残を残すノッポ煙突が残っています。 その先にはクボタ(以前は久保田鉄工と言っていた)の工場などもありますが、古い工場が壊されて物流センターに生まれ変わっている真最中で、尼崎はこれからも大いに発展しそうな感じでした。 同窓会の時間も迫って来ていたので、途中で引き揚げましたが、歩数計はもう2万歩になっていました。 *** 県尼37会 *** 今回で県尼37会の同窓会活動に終止符を打つということで、50名近くの仲間が集まり、嬉しい会となりました。 長年この会を支えてくれた受け入れメンバーに深く感謝しています。 コロナのせいで5年ぶりの開催になりましたが、この間に亡くなった仲間もおり、皆も歳をとりました。 私は皆の迷惑も考えず、尺八の押しかけ演奏をしました。 昨年亡くなった谷村新司の名曲「昴」を吹きましたが、思いがけずアンコールの声もいただき、美空ひばりの「川の流れのように」も吹いてしまいました。県尼37会での吹き納めになる事でしょう。 会場を22階に移して「県尼37会」の過去のビデオを編集したものを見たりしながら更に語りあいました。 これで「県尼37会」も解散するのかと残念な気持ちを感じながらひと時を過ごしました。 *** 近鉄特急「ひのとり」 *** 翌日は難波駅から近鉄の特急「ひのとり」に乗って名古屋まで移動し、熱田神宮に参詣することにしました。 近鉄で大阪から名古屋への旅は私の80年の人生で初めての経験で、冥土へのいい土産になりました。 「ひのとり」は外観がカッコいいだけでなく、乗り心地も大変よく大満足でした。 窓から見える大和八木、桜井などののんびりした風景や、伊賀丘陵を経て津、名古屋に至る旅は大変楽しいものでした。 *** 熱田神宮 *** 名古屋に到着後、名鉄に乗って5分ほどで熱田神宮前に到着しました。便利な所にありますね。 鳥居をくぐり、参道を進んで行くと道端に熱田神宮の紹介パネルが並んでおり、それを読んでいくと神宮の歴史がよくわかりました。 熱田神宮の創祀は、三種の神器の一つ草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)の鎮座に始まります。第12代景行天皇の第三子である日本武尊(やまとたけるのみこと)は天皇の命によりクマソタケルやイズモタケルを征伐しました。 日本武尊は引き続き東国の征伐を命ぜられますが、この時叔母の倭比売命(やまとひめのみこと)から神剣、草薙神剣と袋とを与えられます。この神剣の助けもあって東国征伐を成し遂げ、帰途、宮簀媛命(みやすひめのみこと)と過ごしますが、伊吹山に悪い神の退治に出かけます。神剣を宮簀媛命に預けていたため雹に打たれて病気になり亡くなります。 宮簀媛命は神剣を熱田の地に祀り、その地は熱田神宮となり伊勢神宮につぐ格別に尊い宮として約千九百年前にわたり篤い崇敬を集めています。 社殿は平成25年創祀千九百年を記念して造営されました。ご祭神は熱田大神を主祭神に、相殿神には、天照大神、素盞嗚尊(すさのおのみこと)、日本武尊、宮簀媛命、建稲種命(たけいなだねのみこと・・・古墳時代の豪族で尾張国造の一人で宮簀媛命の兄)が祀られています。 熱田大神とは三種の神器の1つである霊剣・草薙の剣を祀る熱田神宮の祭神で、日本武尊の神剣という性格を持ちますが、同時にアマテラス大神の霊が依る御霊代としての性格も秘められています。 日本武尊は日本人に大変人気がありますが、私もファンの一人です。 三浦半島・観音崎の近くにある防衛大学校は標高85mの丘の上にありますが、その直下に我々が学生時代にポンドと呼んでいた海上訓練をする小さな入江があり、その傍に走水神社があります。 走水神社は日本武尊が東征の時に上総国へ浦賀水道を渡る際、自分の冠を村人に与え、村人がこの冠を石櫃へ納め土中に埋めて社を建てたのが始まりと言われています。また船が海上で暴風雨に遭い、同行していた弟橘媛(おとたちばなひめ)が海へ身を投じて暴風雨を鎮め、数日後、海岸に弟橘媛の櫛が流れつき、村人は旗山崎(御所ヶ崎)に社を建てて櫛を納めて祀られているとのことでした。 また、東京には今も日本武尊が東征をした時の足跡を記念して祭神としてお祀りをしている神社が沢山残っています。 「酉の市の熊手」で有名な浅草の鷲(おおとり)神社は日本武尊が東夷征討の際に立ち寄り戦勝を祈願し、志を遂げた帰途、社前の松に武具の「熊手」をかけて勝ち戦を祝いお礼参りをされたのが始まりだそうです。 熱田神宮の社殿の右には神楽殿があります。こちらでは初宮詣・七五三詣の祈祷を受けられます。 「ならずの梅」という梅がありましたが、実がならなかっても尊いようですね。 土塀があります。「信長塀」と呼ばれ、1560年(永禄3年)に織田信長が「桶狭間の戦い」の前に戦勝を祈願したことでも有名で、奇跡的に大勝利を収めた信長は築地塀(信長塀)を奉納しました。土と石灰を油で練り固め、瓦を多数積み重ねており、三十三間堂の太閤塀、西宮神社の大練塀と並び、日本三大土塀の一つといわれています。 熱田神宮は豊臣秀吉や徳川家康などの武将も尊敬をしており、社殿の造営や修復に力を入れるなど、厚く信仰していました。 「宝物館」には熱田神宮にまつわる古文書や絵画、能面などの資料が展示されており、2021年(令和3年)に開館した「草薙館」には奉納された名刀や玉鋼などが展示されています。 中でも真柄直隆の「太郎太刀」は七尺八寸(約237cm)約4.5kgと巨大です。真柄直隆は身長7尺(210cm)の大男で、朝倉義景に仕え、武勇に優れ、姉川の戦いにおいて黒鹿毛の馬に跨り、大太刀を振り回して戦ったことで有名だそうです。 体験コーナーでは刀剣の実物に触ったり、写真を撮ったりすることが出来ます。 普通の日本刀も触ることが出来ましたが、約1kg近くもあり、これを持ち歩いていたのは大変だっただろうなと感心しました。 「草薙館」の前に食事が出来るテラスがあったので、名古屋名物の「宮味噌カツきしめん定食」を食べて、新幹線で東京へ帰りました。 おしまい
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