中埜和男(和童)
幹候:8区隊
 職種:通信科

 氷川神社から出雲大社へ

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コロナから解放されたゴールデンウイークのある日、大宮氷川神社に出かけました。
大宮の氷川神社には初めての参詣ですが、大宮氷川神社が武蔵一宮の格式高い神社であることは以前から知っていました。
私は子母澤寛「父子鷹」のファンで、その中に勝海舟やその父勝子吉が赤坂氷川神社に参詣したシーンがよく出てきました。たまたま私がその近くで勤務していた頃、赤坂氷川神社境内を散歩で訪れていました。
また、大宮には仕事の都合で訪れる機会がありましたが、武蔵一宮の大宮氷川神社には行くこともなく今回が初めての参詣でした。
大宮駅の西口は新幹線の開通を機に再開発され高層建物が並んだ姿に変わりましたが、私が徘徊していた東口は今も飲み屋や食堂が昔の面影を残しています。

 

商店街を通り抜けてしばらく歩くと、緑豊かな通りに行き着きます。氷川神社の参道です。
一の鳥居、二の鳥居、三の鳥居が続いています。参道の両脇にも氷川神社に関係のある神社が広がっています。
参道を進んで行くと「大いなる宮居」と称えられ、大宮の地名の由来になった氷川神社本殿に至ります。
一の鳥居から北にまっすぐ続く参道は、日本一の長さで2kmもあり、二の鳥居は、現存する木造鳥居では関東最大だそうです。

 

楼門、舞殿を経てやや質素な感じの拝殿に至り、拝殿の奥には本殿があります。
氷川神社は大宮を中心に、埼玉県、東京都、神奈川県に及びその数は280数社もあります。
社伝によれば、孝昭天皇3年の創建で、初代无邪志国造(むざしのくにのみやつこ)の兄多毛比命(えたけひのみこと)が成務天皇(第13代天皇)の時代に出雲族をひきつれてこの地に移住し、祖神を祀って氏神として奉崇したということです。
この一帯は出雲族が開拓した地であり、武蔵国造(无邪志国造)は出雲国造と同族とされ、社名の「氷川」も出雲市を流れる簸川(ひかわ)に由来するという説があります。

主祭神は須佐之男命(すさのおのみこと)、稲田姫命(いなだひめのみこと)、大己貴命(おおあなむちのみこと)です。
須佐之男命、稲田姫命は神話「ヤマタノオロチ退治」で夫婦となった神様で、大己貴命はその間の子(または子孫)で「因幡の白兎」でウサギを救った神様です。

 

三の鳥居をくぐった所に「戦艦武蔵の碑」がありました。
「武蔵」はレイテ沖海戦で撃沈されましたが、平成27年に海底に眠る船体が発見されました。「武蔵」の艦内神社だった「武蔵神社」では武蔵一宮氷川神社の御祭神を分祀していたそうです。
「戦艦武蔵の碑」の反対側に神楽殿があり、大宮アルディージャ必勝祈願が祀られていました。

 

氷川神社の境内社である「門客人神社」はパワースポットとして有名です。
ご祭神は足摩乳命(あしなづちのみこと)、手摩乳命(てなづちのみこと)となっています。足摩乳命と手摩乳命は須佐之男命の妻である稲田姫命の両親として知られています。
門客人神社は氷川神社の地主神で江戸時代には「荒脛巾(あらはばき)神社」と呼ばれていたことが知られています。
アラハバキ神は出雲系の神が武蔵国造一族とともにこの地に乗り込んでくる前から祀られていた先住の神だったようです。
アラハバキ神は偽書と言われることも多い「東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)」にも出てくる「蝦夷(えみし)」の神で縄文時代の遮光器土偶に似た姿とされています。アラハバキ神が治めていたこの地を新たに出雲の神が治めるようになった経緯にも興味をひかれますね。

門客人神社の隣には「御嶽神社」が祀られています。ご祭神は大己貴命(おおあなむちのみこと)と少彦名命(すくなひこなのみこと)です。少彦名命は、小さな神様で大己貴命(大国主命)と兄弟になり、一緒に国造りをしたと言われています。
少彦名命は国造りの協力神、常世の神様、医薬、温泉、おまじないの神様、穀物、知識、酒造、石の神様などたくさんのご利益があります。

 

氷川神社では木製の絵馬の他に「ふくろ絵馬」も授与しています。木の板の代わりに絵馬をかたどった厚紙に願い事を書き、ちりめんの巾着に入れて奉納します。個人情報保護の意味もあり、最近初めたそうです。
神社は高台にありますが、その境内から少し下って行った所にひょうたん池があります。中学生らしい人達が池の近くの日本庭園で写生をしていました。

 

氷川神社の境内を通り抜けて、「見沼たんぼ」の方に足を運びました。
大宮アルディージャの本拠地NACK5スタジアム大宮の脇を通り、静かな住宅地へ入り込みました。
道の脇には丹精込めたバラの花が満開のお宅もありました。しばらく歩くと広大な公園に至りましたが、この辺りが「見沼たんぼ」の広がる地域のようです。移住してきた出雲族はこの辺りを開拓して、武蔵国を代表する一宮氷川神社を支えるのに相応しい豊かな財力を蓄えて行ったのでしょうか。

 

5月の末に氷川神社のルーツを探るべく、出雲の本拠地である出雲大社へ出かけました。

萩・石見空港行のANA機は羽田空港の端っこの方から飛び立ち、一時間半ほどのフライトの後、萩・石見空港に到着。
新緑が美しい高速道を走って浜田に到着しましたが、ここは石見神楽のふるさとで「須佐之男」や「鍾馗」のお面などを見かけました。

 

翌日、午前中「石見銀山」、午後「出雲大社」を観光しましたが、この日はよく歩きました。
石見銀山は、2007年(平成19年)に世界遺産に登録されました。
最盛期には世界の産銀量の約3分の1を占めた日本の銀のかなりの部分が石見銀山で産出され、江戸時代には徳川幕府の天領として財力の源になっていたようです。
観光コースの中央付近に駐車場があり、そこから約2.3km片道45分の散歩道です。ヤマボウシの花がきれいに咲いていました。

 

途中、大久保石見守長安の墓がありました。
大久保長安は、猿楽の大蔵流の家に生まれ、諸国を渡った末に甲斐武田氏に仕え、金山開発のノウハウを身に付けました。
武田氏が滅びた後、徳川家康に仕え、佐渡金山や石見銀山を開発しました。
また、大久保長安は家康の命により江戸の西の守りとして八王子の町を再開発したり、江戸幕府勘定奉行、老中になりましたが、側女を80人も抱えていたとも言われています。
死後、生前の不正蓄財が疑われ、息子たちは切腹刑になり、180年後にようやく名誉回復されたそうです。

 

石見銀山では900以上の間歩(まぶ・・銀を採掘するための坑道)が操業されていました。龍源寺間歩は常時公開されており、坑道の側面には当時のノミの跡が残っています。

 

石見銀山は鎌倉時代に発見されたと言われ、その後、大内氏・尼子氏・毛利氏などの戦国武将や豊臣秀吉や徳川家康による争奪戦が行われ、最盛期を迎えますが、明治以降は国際的な銀価格の低下や災害や収量の低下などがあり、1943年(昭和18年)に採掘が終了しました。

 

龍源寺間歩の見学が終わり、帰路は散歩道と違ったやや広い道路を通って出発点まで下山します。
電動自転車やゴルフカートのような乗り物も使えますが、歩いて下山することにしました。
途中、佐比賣山(さひめやま)神社の前を通りました。鉱山の神様で島根県の中央部にある三瓶山の麓にある佐比賣山神社を勧請したのでしょう。
豊栄(とよさか)神社跡を通りました。毛利元就の木像がご神体として祀られていたそうです。

 

出発点に戻りましたが、もう少し昭和レトロの店が続く道を大森代官所跡の方へ散歩しました。
疲れたので、途中であきらめて元に戻り、羅漢寺で五百羅漢を見ました。
銀山の採鉱は命がけの仕事であり、家族にも知られずに亡くなった人々の霊と先祖の霊を供養するために、五百羅漢が彫像されました。当時の鉱夫は30歳くらいで亡くなったようです。

 

さて、ここまでが序論でいよいよ氷川神社のルーツを探るべく出雲大社へ出かけます。
工事区間が多い山陰自動車道路と在来の国道9号線を乗り継いで出雲市に到着しました。
JR出雲市駅は出雲大社のような外観でカッコいいですね。
出雲地方で言う神有月に全国から八百万の神様が集う時に上陸する「稲佐の浜」がこちらです。

 

出雲大社の参道「神門通り」の鳥居の直ぐそばに「竹野屋旅館」があります。
竹野屋旅館は明治10年創業の老舗で、「駅」などで有名なシンガーソングライター「竹内まりや」の実家だそうです。

出雲大社の鳥居が目に入りました。この鳥居は「二の鳥居」またの名前は「勢溜」と言われています。
どこかで見たような気がしましたが、毎年10月のスポーツの日に行われる出雲駅伝(出雲全日本大学選抜駅伝競走)のスタート位置にある鳥居でした。
出雲大社は正式には「いずもおおやしろ」と呼ぶとのことでした。昔は杵築大社と呼ばれており、明治時代になってから出雲大社と呼ばれるようになったそうです。出雲大社のご祭神は大国主大神です。

 

二の鳥居の反対側から見ると神門通りの先に白い鳥居が見えます。これが「一の鳥居」です。
参道を通って三の鳥居・本殿の方へ歩いて行くと緑が豊かで、落ち着いた気持ちになります。

 

参道の脇に彫刻がありました。
「ムスビの御神像」は、大国主神が海の彼方から光が飛んで来るのに遭遇し、その光が御身に宿る幸魂・奇魂であることに気付き、神性を養われてムスビの大神になられたという逸話を再現した像で、昭和末期に設置されたとのことです。
因幡の白兎の物語を描いた彫刻もありました。
インスタ映えを狙った(?)のか、要所要所に白兎の彫刻が飾られていました。

 

「四の鳥居」は「銅の鳥居」とも呼ばれ、この鳥居をくぐると立派な社殿が現れます。
出雲大社と言えばこの建物が想像されますが、この建物は拝殿で本殿はこの奥にあります。
以前の拝殿が火災で焼失した後、昭和38年に新拝殿が竣工しました。
出雲大社では縁結びの神様に二人分のお願いをするため、「二礼四拍手一礼」でお参りするそうです。

 

残念ながら本殿は予約無しに入ることはできません。
現在の本殿の高さは24mありますが、以前は48mもあったそうです。大社造りと呼ばれる本殿は西に向いており、全国から八百万の神々をお迎えするため稲佐の浜を向いているそうです。
本殿の後ろを回って様子を見ることにしました。
素鵞社(そがのやしろ)は神の砂で縁結びをするパワースポットです。

 

神社本庁のHPで本殿創建の「国譲り」についての記述がありましたので、ちょっとまとめてみました。
天照大御神は、孫の瓊々杵命(ににぎのみこと)に豊葦原水穂国を治めさせようと考え、建御雷神(たけみかずちのかみ)と天鳥船神(あめのとりふねのかみ)に命じて、様子をうかがわせてみました。
二柱の神は、稲佐の浜に降ると、この国を治めている大国主神に、「この国を天神の御子に譲るか?」と問いました。
大国主神は、「もし自分の子どもたちがよいというのであれば、この国は天神の御子にお譲り致します」と答えました。
大国主神には、事代主神(ことしろぬしのかみ)と建御名方神(たけみなかたのかみ)という二柱の子供がいました。
事代主神は国譲りに同意しましたが、建御名方神はなかなか納得しませんでした。
そこで建御雷神と建御名方神が力競べをして、建御名方神は敗れて逃げ出し、信濃の諏訪湖まで追い詰められてついに国譲りに同意しました。
ちなみに、諏訪大社の祭神は「諏訪大明神」ともいわれる建御名方神とその妃・八坂刀売神(やさかとめのかみ)です。
大国主神は自分が隠れ住む宮殿を、天神の住む宮殿のように造ることを願い、そこに移り住むことにしました。
これが出雲大社の起源で、出雲の国は瓊々杵命に譲られたということです。

神楽殿では國造家大広間、並びに出雲大社・出雲大社教の神楽殿として御祈祷や結婚式をはじめ様々な祭事行事が行われています。神楽殿にある日本一の大しめ縄は、長さ13.5m、重さ5tあります。
日本一の国旗掲揚台は高さ47mです。平安時代の本殿の高さが48mだったので、それを越さないようにしているのでしょうか。
日の丸の旗も75畳(縦8.7m・横13.6m)であり日本最大と言われています。待ち合わせの目印にピッタリです。

 

出雲大社に隣接する島根県立古代出雲歴史博物館に行きました。
平成12年から13年にかけて、出雲大社境内遺跡からスギの大木3本を1組にし、直径が約3mにもなる巨大な柱が3カ所で発見されました。これは、古くから宇豆柱(うづばしら)と呼ばれてきたもので、調査・研究の結果、鎌倉時代前半の宝治2年(1248年)に造営された本殿を支えていた柱である可能性が高くなったそうです。
柱の配置や構造は、出雲大社宮司の千家国造家(こくそうけ)に伝わる巨大な本殿の設計図とされる「金輪御造営差図」(かなわのごぞうえいさしず)に描かれたものと類似していたそうです。
「雲太」ともよばれる高さ16丈(約48m)という日本一高大な本殿があったという学説に基づく縮尺1/10の模型がありました。

 

出雲の古代の焼き物などの展示に続き、青銅器が展示されていました。
青銅製の武器を使っていた出雲族が鉄製の武器を使った大和族に敗れた戦いは、昭和58年に発見された荒神谷に埋められた青銅の武器や祭器でも証明されました。ここでは銅剣358本、銅鐸6個と銅矛16本が一挙に発見されました。
それらの実物(?)が展示されており圧倒されてしまいました。
「国譲り神話」の現実の姿を表しているのでしょう。

 

島根県は今も日本刀の玉鋼の産地やたたら製鉄所が有名ですが、ピカピカの刀が展示されていました。
島根県安来市で大正14年に発見された古墳時代(6〜7世紀)の刀です。全然腐っていなかったそうです。

 

まだまだ見たいものはありましたが、クタクタになったので引き上げることにしました。

大和族の神は伊勢神宮などで祀られている「天照大御神(あまてらすおおみかみ)」ですが、大和族との戦いで敗れた出雲族の神々が今も日本中の神社で祀られており、全国の神社の70%くらいが出雲系とも言われています。
氷川神社の他にもアニメ映画「君の名は。」の聖地として有名な須賀神社もご祭神が「須佐之男命」です。
もっとも天照大御神の弟神が須佐之男命ですから祀っていても大きな矛盾はないとは思いますが・・・
勝者である大和族が出雲族の怨念を鎮めるために祀ったとか、勝者大和族が出雲族を虐殺せず、緩やかに同化していったのではないかとも言われています。

更に歴史を遡ると縄文時代には「アラハバキ神」信仰が行われていましたが、弥生時代になり米作農業と青銅器を伴った出雲族が主に日本海ルートや山陰道ルートを使って九州から東北に至る広い地域で支配を広めていきました。
そして青銅の武器を使用していた出雲族は、鉄の武器を使用していた九州の大和族(天孫族)との戦いに敗れます。わが国の歴史はこんなことになるのでしょうか。

氷川神社のルーツ出雲大社を調べる旅に出かけましたが、とんでもない奥の深さに圧倒され、ため息連発で無謀なことはやめて、遠くから眺める程度に留めるのがよかろうという結論を得ました。

 
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