中埜和男(和童)
幹候:8区隊
 職種:通信科

    總持寺

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ご縁があって鶴見大学歯学部付属病院で診察を受け、「異常なし」との結果をいただきました。うれしい気持ちとややあっけない気持ちが交錯しましたが、スッキリしたのですぐ傍にある總持寺を見学してみることにしました。
鶴見大学には文学部と歯学部の他に大学院や短期大学などがあり、曹洞宗總持寺の考え方が生かされているそうです。

  

總持寺は今年、令和3年に開創七百年を迎えました。 
元は石川の輪島にあった真言律宗の教院「諸嶽観音堂」で、1321年(元亨元年)曹洞宗4世の瑩山紹瑾が禅院としました。後醍醐天皇から綸旨を受けて官寺、大本山となり、曹洞宗になりました。1615年(元和元年)徳川幕府から法度が出され、永平寺と並んで大本山となりましたが1898年(明治31年)火災で焼失し、その機会に1911年(明治44年)横浜市鶴見区鶴見の現在地に移転しました。

  

「相承(そうじょう)大いなる足音がきこえますか」の像は令和元年に完成しました。
中央で立っているお坊さんが總持寺の開祖である瑩山紹瑾禅師、右が二祖峨山禅師、左が明峰禅師で、「相承」というのは尊い教えを後世に伝え広めていくということのようです。

右の座禅の像は詳しいことは分かりませんが、今も總持寺の中では禅の修行が続いています。
近くのお堂で若いお坊さんが雑巾がけの修行をしているのを見かけました。
一般の人も座禅会に参加できるそうです。

  

コロナの影響で観光客にもほとんど出会わず、境内は森閑とした雰囲気に包まれています。
左側の黒っぽい建物が仏殿「大雄宝殿」で、中を見ることはできませんでしたが、中央の須弥壇上に禅宗の本尊である釈迦牟尼如来が祀られているそうです。
ご本尊の脇侍としてお釈迦様の「十大弟子」の二人である迦葉尊者と阿難尊者が祀られており、須弥壇の左右の壇には、禅宗の初祖である達磨大師と、大権修理菩薩が祀られているそうです。

右側の白っぽい建物が太祖堂で、開山堂と法堂を兼ねた本堂客殿です。
太祖瑩山禅師と高祖道元禅師、二祖・峨山禅師をはじめとして、歴代の諸禅師の肖像画などが祀られている大道場です。

  

太祖堂の裏手の丘の上におおらかな感じの墓地があります。
その一角にやや小ぶりの「後醍醐天皇廟」があります。島根の隠岐の島に流された後醍醐天皇の廟がここにあるのは、後醍醐天皇が石川におられた時に「曹洞宗の本山は総持寺である。次いで永平寺とする」とする勅令が出され、總持寺が大本山を名乗る事を許されたのが縁で、皇室の裏紋「五七の桐」を使うことも許されたそうです。

ひときわ立派なお墓が目に入ってきました。神刀流創始者日比野雷風のお墓です。
神刀流は明治23年に日比野雷風により創始され、現在も「剣武道」「居合道」「居合抜刀術」「詩舞道」「吟詠道」として日本各地・海外で活動しているようです。

  

總持寺といえば石原裕次郎さんの命日に石原軍団による法要が行われ、話題になりました。
裕次郎さんのお墓は思ったほどは大きなものではないものの、墓前にはきれいな花が供えられていました。
傍らにはまき子夫人の言葉が自筆で彫りこまれた石碑があり、「美しきものに ほほえみを 淋しきものに 優しさを たくましきものに さらに力を すべての友に 思い出を 愛するものに 永遠を 心の夢 醒めることなく  石原まき子」と書かれています。

  

總持寺の墓所には裕ちゃんだけでなく、黛敏郎、浅野總一郎、大西瀧治郎や堺利彦など有名人のお墓がたくさんあるようですが、裕ちゃんのお墓を見て満足してしまいました。

お寺の中を歩き回ったので足がパンパンになってしまい、帰ろうとしたところに深い優雅な鐘の音が聞こえてきました。
鐘の音をたどっていくと、まず、平成救世観音に出会いました。

  

平成救世観音像は東日本大震災に思いを寄せて建立され、震災犠牲者の慰霊と被災地復興を祈り続けているそうです。
さて、鐘堂ではマスクをしたお坊さんが一人で黙々と鐘をついていました。
ここの梵鐘は関東一の大きさで1913年(大正2年)に鋳造されたそうです。

名残は惜しいですが、これで今日の散歩はおしまいです。

 
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