中東(アフガン)体験記

杉本 幹男
  (10区隊 ・ 普通科

救援のため来着した米軍車両
(最後尾の高機動車)
第36連隊武装解除現場、営門をのぞむ。
暴徒逃散後のゲスト・ハウス敷地内、
正門内側
プルチャーク武器集積所から東方、
カイバル峠への隘路を望む

大変遅くなりました。アフガニスタンでの体験、お送りします。
今回の滞在は、アフガニスタンにおける国連による旧武装勢力(一応アフガニスタン国防省の管轄下にあります。)の武装解除を国際的組織で監視すると言う任務を担うものでした。日本が武装解除事業への最大の資金供与国であることからIOGという組織を外務省がコントロールし、その運営をNGOとしてのJMAS(日本地雷処理を支援する会)に丸投げしたわけです。私はJMAS会員ではありませんが、同会との契約でボランティアとして参加しました。7月26日から10月25日まででした。その間の事情についてもいろいろありますが、興味のある方(特に同期生)にお伝えします。

もうもたないな、と思った瞬間、30メートル程先の鉄門が押し破られ石や棍棒を持った男たちが走り込んで来ました。宿舎本屋の中から見ていた私たちは、すっ飛んで地下の退避壕に逃げ込み、扉を閉めました。共に閉じ込められたジョン元英国陸軍大尉とケン元南ア軍大尉が後で言ったのは、あの時ミキオは次のオリンピックに日本の100メートル選手で出られるくらい早く走ったな、と言うものでした。すぐに追いついた侵入暴徒達は扉を叩き、壕の天井上の部屋の床を剥がし穴を穿とうとしています。壕内は真っ暗です。午前後段に発電機が止められていたからです。今年9月12日午後後段のことでした。

これ以前、6月初め所用で市ヶ谷会館に行きOBルームに向かっていると偶然9期の土井先輩に出会い、丁度良いアフガニスタンに行けとの突然の「命令」を頂きました。皆さんご承知のとおり先輩はJMAS(日本地雷処理を支援する会)の理事長で、JMASのカンボジャでの活動については聞いておりましたが、アフガニスタンとはまた何だろうと好奇心を持ったのが運のツキでした。同国の旧軍事勢力、所謂軍閥の武装解除を監視するとのことで、取り敢えず3ヶ月参加させて貰うことになりました。で、7月末空路バンコック、ドバイを経由カブールに入りました。ドバイからは国連機の白塗りDC-9でしたが、日本大使館の公使やJICAの契約コンサルタントの人達と一緒でした。空路は全て砂漠と砂漠色の岩山の上で、標高1,800メートルのカブール空港は首都の表玄関とは全く思えないみすぼらしさ、予期はしていたものの、こりゃあどうなっちゃうのかなとやや暗然たるものがありました。

田舎の鉄道駅改札口みたような入管の外には国際監視団本部長の園部先輩が待っていて下さいましたが、以前お会いした時と打って変わり精悍な表情で、あ、これは大変らしいぞとの印象を新たにしたものです。埃っぽく雑然とした街を走ること小一時間、本部事務所兼宿舎の三階建ての建物に到着、IOG(国際監視団)の一員として、国連によるアフガニスタン軍閥勢力に対するDDR(武装解除、動員解除、社会復帰)過程の監視任務が始まりました。建前は同国大統領の委嘱によるものですが、実態はDDR活動に多大の財政的支援をしている日本政府が、金だけでなく何らかの存在感を示すために設けられた組織と言うことが出来るかもしれません。日本人だけでなく、今までにドイツ人、トルコ人、ルーマニア人、カンボジャ人もおり、今後他の国からの人の参加も期待されています。

当初はカブールと周辺の部隊でのDDR活動監視と情報収集・連絡や武器集積場での業務をしていました。他の団員達が地方に展開しているのに私だけのうのうと安全?なカブールで過ごし申し訳なく思いましたが、8月4日から同国西部のヘラート市へ派遣されることになっていたのが大使館からの勧告で取り止めになった経緯がありました。9月に入り、漸く制約がなくなり9日、空路進出しました。へラート市は同名の州の州都で、イランと接するこの州は両国貿易の要としてアフガニスタンでも最も裕福な所です。実際、アフガンの他の所と比べれば街も美しく人々も優雅で(あくまでも比べればの話しです)、現地の食堂で違和感無く食事できたのもここだけでした。宿舎はUNICAという国連外郭組織のゲスト・ハウスで、高い塀に囲まれ、平屋で20部屋程とプールやテニスコートのある施設でした。その日は国連のANBP(アフガニスタン新生計画)施設にMDU(移動武装解除班)を訪ね情報交換をしただけでした。

翌日はUNAMA(国連アフガニスタン支援事務所)を訪ね安全担当者や軍事連絡官達から情報収集しました。あいかわらず現地知事の協力が得られないが、少なくとも市内の情勢は安定している様子でした。ところが、11日、国連職員と外国人は宿舎に留まれというのです。カルザイ大統領が現地のイスマイル・カーン州知事を解任し、解任に抗議するデモがあるとのことです。この日は何も起こりませんでしたが、宿舎地下のバーは10日夜以来閉まったままでした(正直、これは困りました)。12日は午前中デモがあるが、昼には収まるとのことで国連関係者は相次いで出て行きました。私も市内の現地人の宿屋に居る車両と通訳を呼び寄せようとしましたが、街が騒然としていて来る事が出来ないとの連絡です。致し方なく宿舎に留まり、通訳とは定時連絡を保ちながら様子を見ることにしました。残っている外国人はグローバルという英国の警備組織の人間2人で、一緒に10時頃から門の外を行くデモ隊の様子を窺って居ましたが、始め子供達の小集団だったのが、11時頃には大人のしかも規模も段々大きくなってくるのです。

11時半、門とは反対の東の方向で銃声が起こり、やがて数百メートル程向こうで黒煙が立ち上り爆発音がしました。10日に訪問した国連事務所の辺りです。しばらくすると、米軍のブラック・ホークが2機やってきて黒煙の周辺を周回飛行し出しました。散発的な銃声や一斉射撃が続きます。私たち三人は、この時点では、やがて事態収まるものと観測していた様に思います。実際、午後1時頃には銃声も下火になりデモも来ない様子です。ところが、1330時頃再び国連事務所付近から新たな黒煙が上がり、爆発音、そしてやかましい銃声がし、一部は宿舎に接近している様に思われるのです。塀が高すぎて外の様子が分からないので三人で屋上に上ろうとしましたが、出口が危険で中止しました。その頃から宿舎の現地人職員が居なくなり始め、ついには警備担当者2〜3人以外はマネージャーまで見えなくなりました。1430時頃には銃声がのべつまくなしとなり、東塀のすぐ近くでも小銃音がするようになりました。1500時、外のデモも再び盛んとなって来たので三人で地下壕入りの準備をしました。約1キロ北西にある、米軍の拠点まで撤収しようかとも話し合ったのですが、ま、無理だろうということになっていたのです。1530時、正門前騒然となり、宿舎内から見ていると、門が打ち破られ、文頭の様なことになったわけです。

退避壕は27平米位の極く狭いもので、非常時対策完備の筈ですが、9日に点検したところでは20立の缶が13本あることになっている水は見当たらず、定量の半数しかない糧食はデンマーク製ではあるものの消費期限は1998年6月29日でした。無線機もあることはあるが、このところ調整したことが無いことは一目瞭然でした。麗々しくEmergency Light と書いて小さな蝋燭が10本とパキスタン製マッチが置いてあるのには笑いました。ということで、緊急連絡はジョン・スノウ氏が携帯電話で実施、幸い、彼の同僚が米軍と行動をともにしていて、地下壕退避後20分には米軍が救援に来てくれることがはっきりしました。私は壕の扉を爆破されたら困ると思い、南アのケン・バード氏は燃料油を注入されることを恐れたと後で言ってました。幸い、数十人と思しい暴徒は銃もRPGも持たない素人さんの集団だった様で、おかげで50分後アメリカ軍1個分隊強が高機動車3両と国連車5台で駆け付けてくれるまで退避壕はもちました。

1620時米兵が顔を出し、即座に誘導されて退避、荷物は置き去りです。屋内も庭も壊れた家具や建物の破片で足の踏み場もありませんでした。門外に出、高機動車に分乗、200米程で大通りに出ると、バリケードを築いて新国防軍が数十人警戒していました。新国防軍の基本編成は700人の大隊ですので、国連事務所からここまでに約200人の1個中隊が展開しているものと推測しました。国連前を通ると、焼き討ちは完璧で見る影もありません。そこを過ぎて直ぐ小銃1発が車列に打ち込まれ、停止。米軍はそこで30分ほどもかけて捜索しました。後、1700時に、一時そこに逃げようかと考えた米軍の拠点、実際はPRTと言い、地域再建チームなのですがまるで西部劇の砦の様なところに運ばれ、即座にUH-60ブラックホークヘリに乗せられ、へラート空港に届けられました。そこには既に国連職員が三十人程居ましたが、怪我人は無いようでした。結局、一晩空港待合室外で仮眠し、翌日昼過ぎに国連機でカブールに戻りました。宿舎料金と帰途の航空運賃は払っていません。

反省点は色々ありますが、まず情報について国連に依拠したのは不十分でした。国連には現地人からの直接情報入手手段が無い様で、機微にわたる消息は不在でした。また、カブールの本部との緊密な情報交換は不可欠で、全般状況を早く承知しないと適切な時機での退避決心は出来ません。状況判断については、米軍と新国防軍の展開を承知しており、抑止と救援にはある程度の安心感を抱いていました。退避壕については、9日に点検し全く整備されていないことは承知し、しかも構造上の重大欠陥もありました。実は壕は完全な地下ではなく1階テラス下の約3米程奥ではありますが空気抜きがあり、もし見つかれば射撃や投げ込み口となったことでしょう。もちろん、9日に寝具等で塞ぎ、更に空気抜きの下にある凹みの前に椅子や机を並べ毛布等で目隠しを作っておきました。緊急連絡については、英国人の携帯電話連絡が円滑な事を見ておりましたので、適切な救援依頼先が見付かるものと期待していました。

ま、しかし結果論で、期待は期待にしか過ぎません。自分の装備としては小型肩掛けバッグの中に、軽量ウインドブレーカー、懐中電灯、水2立、糧食、薬品等、また旅券、纏まった金銭と小銭、電話カード、写真機、携帯電話、万用ナイフをボタン付きポケットのあるズボンに携帯し手放しませんでした。残念だったことは携帯電話機用充電器を衣料バッグに入れていたため失い、避難後の充電が出来なかったことです。交換した名刺も手元に置いておくべきでした。とにかく、助かってこうして皆さんに体験談をお話できるのは幸いなことです。その後、カンダハール出張時、搭乗機内で酸素吸入器が一斉に落ちて来てカブール空港まで引き返したり、カブール市内で買い物をした同じ街で3時間後に自爆テロがあったり、本部の近くで小銃射撃音がしたりしましたが、概して安全でした。

 アフガンでの3ヶ月間、おっかなびっくりでしたが、何とか無事生き延びました。いろいろ幸運もあり、すり抜けたといったところです。体もいたって健康で腹も壊さず風土病にも罹らず、現地では歴史的な大統領選挙も間近で見、国連の実態も認識でき大変ありがたい貴重な体験をさせて頂きました。体重も10月18日からのラマダンまでは変わらず、その後現地の人を真似して一緒に昼間14時間断飲食し、しかも回教徒のように夜暴飲、暴食しませんでしたので4キロくらい減っただけです。髭を生やしましたがパシュトゥン人とは比べ物にもならずご愛嬌に終始しました。また、機会あればお話します。



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アフガニスタンで恐い思いをしました。!!