「事に臨んでは危険を顧みず」精神の涵養 下
空挺団勤務の回顧から
目次 1 隊付勤務―命を賭ける集団の臭い 2 基本降下―「技」の習得と連帯感 3 勤務と俸給―自衛官は職業に非ず 4 治安出動準備―自信過剰の錯覚 5 展示降下―名誉を賭けた広報 6 災害派遣―現場指揮官の責任 (以上、上巻) 7 降下訓練事故―殉職隊員の処遇 8 陸曹の人生観―即応と降下回数 9 落下傘の整備―連帯感・戦友愛 10 空挺団演習―現場主義と規則 11 空挺魂―自己顕示・忠誠の対象 12 精神障害―解決の難しい課題 7 降下訓練事故―殉職隊員の処遇 空挺降下は危険なもの、死亡を含む事故は避けがたい。 世間相場でも生命保険への加入に際し、テストパイロットと落下傘降下を除くとか、保険料割増の条項が付いている。 筆者は、3尉任官からCGS入校までの7年間、空挺団で育てられてきたが3回「部隊葬」に立会し、殉職隊員の棺を捧持した。 教育隊の教官として、直接タッチしていない学生等の殉職事故とはいえ、そのご不幸について今も道義的責任を感じている。 1回目は、基本降下課程中の2等陸士の不開傘事故。 2回目は、パラグライダー試験中の2等陸曹の墜落事故。3回目は、自由降下課程中の不開傘による2等陸曹の殉職だった。 手元に落下傘事故のデーターは無いが、1967年のアルバムによれば「16万回無事故開傘」を誇っていた。 外国に比し大幅に少ないと聞いていたが、絶無にすることはできなかった。 降下訓練事故の原因は大別すると三つに分かれる。 一つは、落下傘に起因する。二つは、突風とかの異常気象による。三つ目は、降下者の異常心理、操作ミスである。 重大事故が起これば、副団長を委員長とする「事故調査委員会」が立ち上げられ、原因究明と再発防止に知恵を絞るが、気象現象と異常心理は、原因の特定が難しい。 地上から落下傘整備員が、眼鏡で開傘経過を監視する措置は採っているが、人知は及ばない。。 調査委員会で、落下傘に問題はなかったと判断されれば、降下訓練は再開される。 一方で、部隊葬・追悼式を終えると、遺族への補償、訴訟という問題が起こってくる。 教育担当の教官、助教の励ましも欠かせず、ときには人事措置が必要になる。 また、落下傘の整備にあたっている隊員は、かなり神経質になる。
厄介な問題の一つは官舎地区の奥様たちで、事故原因の憶測と責任の所在、保険金等の受け取り額と子供の養育費等について、様々なうわさが飛びまわる。 聞きかじった筆者の女房に、「カネの話はするな」と注意すると、「もうすぐ子供が生まれるのだから、協栄・東邦の団体生命保険は満額入っておいてください」と逆襲された。 そこではたと気がついた。 空挺隊員自身は「事故は避けられない」と覚悟し降下に臨んでいるが、女房どもは亭主の安全・無事を祈る一方で、万一の場合は子供を抱えて自立しなければならない。そこに、夫婦間における危機意識の差が生ずる。 この問題、亭主が折れるか、女房が折れるかで、空挺隊員としての人生行路が大きく変る。 飲み代の一部を保険に回し、万一に備える女房側に付かないなら、独身を貫く選択になる。 陸曹の中で中年の独身者は結構いたし、自立した経済力のある女房をもつ者もかなりいた。 現代では当たり前かもしれないが…。 後に米国に留学した際、第82空挺師団の女性隊員が降下訓練で死亡する事故に遭遇した。 基地の隊員・従業員は挙げて彼女の死を悼み、残された遺族を励まし称賛する追悼式を挙行していた。 地方紙を含め、女性の降下は無理だ、止めるべしと言う声はなかった。 栄典・顕彰・遺族年金等の制度が定着しているからだろう。 現在、空挺訓練による殉職隊員の慰霊碑は、空挺団本部前の松林に集められているが、栄典や弔意金の部分は今も十分だとは言えないのではないか。 8 陸曹の人生観―即応と降下回数 隊員の降下回数は、陸曹が多く、幹部・陸士は少ない。 当時の空挺団の年間降下目標は10〜12回だったが、実績は8〜9回程度だったと記憶している。 空挺隊員手当を受給する見返りは、「何時でも降下します」という即応態勢の見返りのはずだが、30代後半になると億劫と言うより身体能力の低下による「けが」が恐ろしくなってくる。 降下訓練の割り当ては、中隊長が早めに各自に予告する。 当日、降下予定者は具合が悪くとも必ず登庁し、報告しなければならない。 それによって、降下拒否やサボりを防ぐとともに、同僚に対する信頼関係を繋ぎ止めておく。 階級と降下回数の関係について観察所見を述べてみよう。 降下課程を終えたばかりの陸士諸君は、早く回数を伸ばしたいという反面、上級者・ベテランに交じってうまく降下できるかと言う不安を抱え続けている。 しかし基本に忠実で、くそまじめだと笑われつつも、毎回興奮して着地の様子を話すので初々しい。 20歳代の陸曹は、降下にがつがつしている。 降下手当を得て飲み代にする者(当時はまだ私有車保有の時期ではなかった)。 降下・着地要領を自己流に修正して(プロ野球選手が打撃フォームを修正する)自慢する者。 降下訓練では常に重火器の運搬を引き受け、俺が小隊を引っ張っているという臭いを、紛々とさせていた。 30歳代になると、少しずつ降下の恐ろしさがわかってくる。 体力の衰えや感覚の鈍りを自覚すると共に、降下訓練を希望しなくなり、陸士に機会を譲る・頼むようになる。 30代後半になると、空挺団に残って降下を続けるか、一般部隊に転属するかの岐路に立たされ、多くが募集・総務・兵站部隊へ転属する道を選ぶ。 初級幹部(3〜2尉)は、とにかく現場経験を積むことと、幹部としての能力を示すため、積極的に降下訓練に参加する。 特に空挺にあっては、威勢のいい幹部の評判は隊内クラブでの陸曹会話からぱっと駐屯地に知れ渡った。 中級幹部(1尉〜3佐)になると、中間管理者としての職務割合がぐっと増え、降下訓練回数は制限されるが、やむを得ないとみなされる。 しかし、検閲や団訓練があるときは、直前に武装降下のカンを取り戻し、中隊等の練度把握の必要から跳んでおく。 上級幹部(2佐〜陸将補)は、本務の空いた時間にちょこっと降下し、完全武装による錬成降下はほとんどやらない。 降下感覚や隊員資格を維持するためのペイ・ジャンプと呼ばれ、口の悪い連中から「まあ年寄りだから、しょうがない」と軽蔑されていた。 降下感覚は、経験の反省を踏まえて磨かれていく。一方で、加齢に伴い五感の能力は低下する。 降下回数が尊重されるのも一理あるというわけだ。 そんな中で小林団長は、150回余の降下をされた。 これは、将官として稀有の回数であり、そのため日頃から駆け足を心掛けていた。 米第82空挺師団の駐屯するフォートブラッグに短期留学した際、筆者は毎朝5時過ぎに師団長が副官を伴うことなく、短パンで官舎から駆け足に出発する姿を度々お見受けした。 実戦に備えるトップは、何処も同じである。 小林団長の降下回数は、風のない日、学生降下の視察を兼ね、ヘリで隣接する演習場から飛び上がり、そのまま演習場に降下し、傘は副官が回収するという、軽便な方法にもよるだろう。 新年の初降下では防衛庁長官が見守るなか、最高齢者の団長と最若年の隊員による展示降下が恒例なので、その点からも日頃の降下訓練は欠かせない。 筆者の降下回数は、人事記録上は199回だと思うが、実際は+αが付く。 実は降下回数の20回、50回、100回、150回、200回は、特別昇給の対象になっていた。 199回になった時、団長室に呼ばれ「君はCGSに合格し転属するので、降下はもうやめとけ」とのありがたい指導を頂いた。 怪我を恐れた温かな配慮にちがいない。 ちなみにこの回数は、自由降下の教育や装備の試験で1日3回のハードな降下によるもので、降下手当は月2回分までだから、もとはとっていない。 +αは米国での降下と、空挺予備員としての降下だから、205回くらいではないかと思う。
9 落下傘の整備―連帯感・戦友愛 空挺団には落下傘の整備・回収・補給を担当する「落下傘整備中隊」がある。 70名くらいの隊員で、職種は需品科が主力。全員空挺降下の資格を持っており、諸手当も付く。 しかし「我こそは」の意気に燃える戦闘職域の陸曹にとって、非戦闘職域の彼らに対する評価は低い。 とはいうものの、降下を控えて落下傘を受領する際は、「頼むから俺の傘だけは開いてくれよな」と心の中で手を合わせ、日頃の軽視姿勢を猛省しているのである。 落下傘整備員の職務は、使用した個人用傘を再使用するために整備し、包装し、補給することと、重物量(トラック・軽砲・燃料等)を輸送機から投下する重物傘等を準備することにある。 空挺作戦の第一歩は落下傘の開傘であり、そのカギは彼らが握っている。 だから整備員の補充・選定にあたっては、慎重さ、手先の器用さ、腕力等が重要になる。逆に言えば、「俺が俺が」の口先人間や、アバウトの性格は敬遠される。
整備・包装作業は、10m余の作業台が何本もある工場で行われる。 包装する隊員は赤い帽子をかぶり、独特の前掛けをつけ、ナイフと長尺と引っ張り鉤を持っている。 仕事の重要性に比べ外見は機能的だが、おせじにも「かっこいい」とは言いがたかった。 演習場で使用した落下傘は、立木等で引き裂かれたり、泥がついたり、水に濡れたりしており、そのままでは再使用できない。 不開傘や亀裂の原因になる。 そこでまずそれらを複数の目で点検し、補修し、乾燥し、ひどい損傷は需品補給処に後送する。 直径約11m、吊索36本からなる個人用の傘をたたむ基本は、飛び出した隊員の重量と飛行速度による引力を利用し、両方から畳んだ索・布を徐々に展張させることで破裂・切断を防ぎ、空気を入れて膨らませる。 そのために、蛇腹のように折りたたみ、袋に押し込んでパックに仕上げていた。 新人は、1個をたたむのに約1時間。その間に、指導整備員の点検指導を何回か受ける。 ベテランになると30分足らずで仕上げるが、力仕事でもあり汗をかく。 傘には使用・包装の経歴簿があり、包装者がこれにサインして記録を残す。責任の明確化である。 さらに新人には、自分で畳んだ傘でのテスト降下が義務づけられている。 責任の重さと技能の腕前を、自らたたんだ傘と自分の命で立証する(各国も同様の措置)。 一方でベテランには、包装・無事故の包装回数に応じ、表彰や特別昇給が行われる。 輸送機内で降下員を指揮する上級者にも、課程教育で落下傘の包装と、それによる降下を課している。 降下のベテランといえど本音は、「自分でたたんだ傘でなく、落下傘整備中隊のたたんだものがいい」という心理の中で、不安を抱きながら降下に臨んでいる。 こうしたシステム―落下傘整備員は自分で畳んだ傘で安全性を立証し、降下者は自分ではできない傘の安全性を信頼する―から、戦闘員と後方隊員との精神的結びつきは、平時の訓練を通して極めて強いものになる。 落下傘整備中隊長は、傘にかけては一家言を持つ人が多い。 団長といえども、傘については一目置かざるを得ない。 小生がいた頃の中隊長は野田毅1尉だった。 後にご子息が総理大臣になられたが、「ドジョウ」の父親らしく温厚で、実直な方とお見受けした。 最後に、当時の落下傘は、日本製で20kg、40万円くらいしたそうだ。 しかし今は、操縦性能の良い(特許を持つ)15 kgのフランス製を使っている。 どれくらいの傘を保有しているかは、防衛秘密にあたるそうだ。 10 空挺団演習―現場主義と規則 降下7回目の時、空挺団が挙げて対抗演習に参加する機会に恵まれた。 団演習は初陣だったので、中隊長は心配して小隊陸曹にベテランを付けてくれた。 王城寺演習場で第22普通科連隊の防御陣地に直上降下する想定。 空自の松島基地が出発拠点となった。 当日の天候気象が確認され、演習開始にGОがかかる。 時間にせかされて身体に装備を付けるが、背に20kgの落下傘、腹には予備の落下傘。右肩にはショックパットに入れた小銃。下肢には30kgの背嚢をつける。これに2日分の食糧と弾薬(空包)を入れている。 完全武装すると、もはや一人で立ち上がれない。 機関銃手やロケットランチャー手になると、更に弾薬量がかさむ。 C46のタラップは梯子であり、機上から引っ張り上げる。 いよいよ離陸。 10機ばかりで編隊を組むため、空中待機の時間が長くなる。 松島湾の絶景が見えるとか見えないとか騒いでいても、小隊長は隊員の顔色を見回らねばならない。 6分前に降下扉が開かれ、よろよろと立ち上がる。 ここまで来ると、傘が開くかとか、緊急時に予備さんを引くとか、着地時の風による怪我という問題より、降着後の小隊員と装備の掌握が気にかかる。 小隊長としてへまは許されないとの緊張が優先する。 ベルが鳴り、降下開始。先頭は小隊長。最後尾は小隊陸曹。 機関銃等を吊り下げた者が転んだり遅れたりするので、連続降下の最後尾は演習場外を予想しておかねばならない。 跳び出すというより、落ちる感じで機外に。 だが、自分が演習場のどの地点に居るかわからない。 真下は断崖と川で、事前教育した砂盤と一致しない。 必死で集結地を探そうにも、装備の重さで落下傘が旋回しないし、落下速度がいつもより速い。 後続の降下隊員との距離はつめておきたい。 ごちゃごちゃしているうちにドスーンと何とか演習場内に着地。 傘と背嚢を外し、傘を収納バッグに入れ、銃を取り出し、小隊員が降りた方向によたよた駆け出す。 傘を所定の位置に置き、近くの隊員を掌握し、地形をよく知っている陸曹の誘導で目標に向け攻撃前進する。 敵の防御陣地(第22連隊)に到着したが、壕は「もぬけのから」で火器もそのまま放置されている。 「おー、しめた」とばかり、機関銃と空包をいただいて目標地点に進出し、防御陣地 (空挺堡) の構築を開始した。 その日の深夜、審判員が小隊陣地にやってきて、空挺団長の天幕に至急出頭せよと指示した。 天幕に入るや否や「バカもん」の怒声。何のことかわからなかった。 対抗演習と言えども、空挺降下の間、地上部隊は状況一時中止。 傘を回収し、彼我の人員装備の異常の有無を確認した後、演習は再開される。 これが対抗演習の規定であり、実戦では傘を埋める(映画『ノルマンディ大作戦』で米軍も埋めていた)。 しかるに新米小隊長はそれを無視し、無人の陣地から機関銃を持ち出したというわけだ。 団長曰く、「演習だから規則は守れ!! 第22連隊は『機関銃がなくなった』と大騒ぎしていた。 実戦なら貴官の行動は勲章ものだから、処罰はしない」と宣告された。 第22連隊と統裁部のごうごうたる非難と処罰要求の中で、空挺団長はかばってくれたのだ。 演習場の端に降りたので、状況一時中止のラッパ・警笛は聞こえなかった。 と言うより、対抗演習だから実弾はないにしても、武器の取り合いは当然と考えていた。 実戦的訓練に勇んでいた小隊長としては、演習を大きく阻害する大失態をやらかしたのである。 演習の一時中止は、過去の失敗経験に基づいている。 某空挺団長は、副官から機上扉口で富士演習場の地形説明を受けている際、尻にタッチされたと勘違いし、駒門駐屯地上空で跳び出してしまった。 団長不在のまま、演習を継続したか否か、承知していない。 また某空挺団長は、降着した際に足を骨折し、担架に担がれたまま3日間指揮を続けた。 映画でも、ジョン・ウェイン空挺師団長が担架に乗って指揮していた。 さらに某中隊長は、腰の拳銃サックの脱落防止紐が開傘衝撃で切れ(重い方だった)、拳銃が演習場に落下。 演習を中止して、全隊員で捜索にあたったとか…。 その他、立木にひっかかる者、民有地に落ちで植栽物を壊す者等々、地元の業務隊渉外班のお世話になった事例は枚挙にいとまがない。 一方で、某陸曹が日本刀を携行して降下した例もあったそうだ。 「携行弾を使い切ればこれで戦うしかない」という発想だが、そこまでやると「パレンバン」の絵を思い出すが、積極的な空挺隊員はいつも創意工夫を心掛けている。 「銃刀法違反」だとか、「降下訓練規則」だとか、「演習実施規定」とか言われるが、有事即応を建前とするなら某陸曹の行為は「理にかなった手段」であることを忘れるべきでない。 戦術レベルの軍隊や中小企業では、「やる気」を高める手段として徹底した「現場主義」をとらせる。 官僚化した軍隊・第2次大戦前のフランスでは、規則・法律に定められたとおりの行動が求められた結果、法律を守って国を失った。 そうした規則・法律のめざすものは、組織全体の秩序を維持することであって、戦闘に勝利することではない。 福島第1原発事故対応での海水注入問題は、そのことを示していた。
11 空挺気質―自己顕示・忠誠の対象 1975年に空挺団勤務から離れたが、82年に米国フォートブラッグ基地に短期留学の機会を与えられた。 ここは、特殊戦学校、特殊作戦司令部の他に、第82空挺師団が駐屯している。 また、隣接して戦略輸送の空軍基地があり、1個大隊を24時間以内に発進させ、世界のどこにでも降下させる「緊急展開」の即応態勢がとられていた。 ちょうどその時期、日本の空挺団から10名ばかりが研修に訪れたので、彼らと一緒に降下訓練に参加させてもらった。 筆者の所属は陸上幕僚監部で、留学目的に降下訓練は含まれてない。 それでも空挺経験者だと言うと、例の調子で「ОK、ノープロブレム」。 但し、夜間降下で特別扱いはしないし、降下メンバーとの事前訓練が条件とされた。 今度は当方が、「ОK、ノープロブレム」。 訓練要領・施設は日本と同じ。 もともと自衛隊は、米軍から降下訓練を教わったのだから、当然と言えば当然だ。 小生の訓練練度を見た米軍の降下隊員が、「こいつならメンバーに入れても大丈夫」と言ったかどうか。 ともかく、若い中尉の降下指揮官は、降下員リストに加えてくれた。 降下を控えた夕刻、米兵は皆陽気だ。 感心したのは、皆顔に塗料を付け(インデァン風の偽装)、武器・装具を携行している点だ。 日本のような、武器・装具なしのペイジャンプはないそうだ。 小生はゲストだから、空身でいいとのこと。 それからバスで飛行場に向かい、落下傘を装着し、C130輸送機に搭乗。 機内準備、降下要領、着地・集結まで、米兵の手を煩わせることなく終了した。 国民性や言葉は違うが、一緒にスボーツをやり終えた時のような、爽快な気分に浸ったものだ。 帰りのバスで、降下手当や空挺隊員手当はあるかと問うたら、「それは何だ、ボーナスはない」との回答。 「なぜ空挺隊に志願したのか」との質問に、「エアボーン。ナンバーワン。オール・ザ・ウエィ」の合唱が返ってきた。 陸自も米軍も空挺隊員の気質は同じだ。 彼らは、生死を賭しての真剣な活動に没頭することこそ、軍務に携わる人間にとって最大の喜びと感じている。 米国での軍務は、Military Serviceである。 それによって、仲間から存在を認められ、努力を評価してもらう、つまり他人に認められたいという潜在的願望・自己顕示を実践している。 それが彼らの活動意欲を刺激するモチベーションなのだ。
現代の空挺団においても、志願者は後を絶たないようだ。 てっとり早く、「楽して生活できる」方法もあるし、ゲームやバイトや海外旅行やボランティア等、自分に合った好きな活動で相応の経済性を得ることも可能な日本。 そんな中で、自発的な意思に基づいて、多様な職域の中から特に厳しい空挺を選ぶ青年達。 そこから、自らが創意と工夫を凝らして努力することで、より強い満足感が得られるのだ。 そうした自己顕示と仲間への献身に自らの努力の源泉を求める風潮は、時代や国家を超えて存在する。 その数は多くないかもしれないが、そうした青年達を大切にし、その活動を評価してやりたいものだ。 個が確立されて強い連帯意識が生まれ、それが精強な部隊を生む。 そして強い組織に同類の友が集まり、人が育つ。 このサイクルとシステムは、特殊部隊・戦闘職種の隊員に共通している。 「国民に貢献し認められたい」とのモチベーションもまた、民主国家の軍隊に共通している。 かって日本陸軍は、徴兵制、天皇の軍隊、厳しい軍律、軍法会議等の制度の他にも、鉄拳制裁や体罰と言う力による統制で軍規の維持を図っていた。 しかし志願制の自衛隊は、曹士の自発的志願と服従、理解と納得による積極的服従を求めることで、集団としての戦闘力を高めようとしている。 しかしながら、指揮官と部下の精神的結びつきは、過酷な状況で維持しうるかどうかわからないし、更に彼らのそうした自発的志願に報いる制度が整っていない点に、問題を残している。
12 精神障害―解決の難しい課題 昨年『永遠の0』と言う小説・映画がヒットした。 ゼロ戦パイロットの空中戦を読みつつ、「空挺勤務時代、似たような空中での意識喪失問題に直面したなー」と思い出したことがある。 自由降下・フリーフォール訓練における重大な失敗経験である。 自由降下は敵の背後等に高高度から侵入するため、自由落下した後に一定高度で特殊傘を開き、ピンポイントへの降着をめざす。 一般にスカイダイビングと言われる技術の応用。 戦略情報の収集には不可欠で、若手の情報幹部に取得が望まれる戦技である。 だが、高高度からの自由落下には特別の技術と強い精神力と心理的な適正が欠かせない。 そのため要員選定にあたっては、空自パイロットが受ける身体検査・適性検査の合格が必須条件とされる。 酸素不足・寒冷・秒速落下は、「空間識失調」という意識喪失を引き起こすからだ。 自由降下の開傘は自力で行わねばならないが、意識喪失に陥ると、それができなくなる。 筆者もその課程を卒業し、教官見習いをやっていたが、ヘリ機内で学生をチェックした際、ペンを無造作に胸ポケットに入れて高度1万2千フィートから学生に続いて跳び出した。 ところが胸ポケットのファスナーが風圧で開き、それが破れてはためきだしたため、身体は凧のしっぽが切れたのと同じようにぐるぐると回転し始めた。 このままでは、意識を失う。 その場合でも安全装置が働いて開傘するが、主傘は身体の回転で葉巻・のろし状になり、不開傘になる。 脱出の方法としては、空中で不動の姿勢に戻し、頭からまっさかさまのまま3千フィートまで落下し(回転は止まるがスピードが猛烈に速くなる)、手動で開傘するしかない。 但し、速度が速いので開傘衝撃が大きくなる危険が伴う。 結局、後者の方法を選択して、危機を脱出することができた。 空中で「こりゃー、ダメかな」と一瞬ひらめいたことを覚えている。 2回目の死に損ない体験だった。
しかしそうした危険は、幹部学生と言えども避けられない。 卒業するまでに20回の降下が求められ、最後は酸素マスク・戦闘装備を身体に固着して降下となる。 課程教育後半のある夜、学生の某2尉が突然「ギャー」と叫び出して飛び起きた。 夢でうなされ、無意識のうちに出た発作だが、その大声に皆目を覚ました。 肉体的故障はなくとも、もはやこれ以上の訓練は続けられない一種の精神障害である。 自己に厳しい肉体訓練を課し、責任を全うしようと努力したが、恐怖感からくる不眠症・精神障害に勝てなかったのだ。 自動索降下(自由降下に対比して一般の降下を指す。飛行機と落下傘がつながっており、手動で開傘動作をしなくとも傘は開く仕掛けになっている)においても、飛行機の飛び出し口に立った途端、降下を拒否して機体にしがみつく者がたまにいる。 助教が2人係で引き離そうとしてもダメだ。 必死の力はすごい。 降下拒否の意思は変わらないので、無理強いはしない。 その日のうちに原隊復帰の手続きをとる。 精神的・潜在的に追い詰められた観念に捉われる隊員は、命を賭けた訓練・戦闘には耐えきれない。 そうした兆候や症状を事前に見つけることも難しい。 東日本大震災の撤収後、救援活動にあたって指揮していた連隊長が、自殺の道を選んだことは痛ましい。 「戦場神経症」と言われる症状は、肉体的な故障はなくとも、これ以上の訓練や勤務を続けられなくなる精神障害で、人一倍責任感の強い幹部と言えども避けられない。 実戦では確実に増えるだろうが、訓練しても発生を抑えることは難しいだろう。 的確な人選、適正な検査、休暇の処置は、空挺訓練だけの問題ではない。 戦闘ヘリのパイロット、不発弾処理隊員、災害派遣、PKО要員、特殊戦要員にも、共通する深刻な課題である。 志願の中で更に志願をしての訓練、その努力の中で挫折する者、評価から洩れる者、志半ばにして殉職する者は必ず出てくる。 それらの関係者は、みんなで救ってやる。 本人は完全燃焼した結果かもしれないが、家族や遺族に対しては補償や栄典が欠かせまい。 そうしたシステムが、高い即応性や抑止力を持つ戦闘職域の隊員に対する、儀礼ではなかろうか。 訓練・災害派遣等で殉職した隊員のご冥福を謹んでお祈りする。
おわりに 個々の戦闘様相はクラウゼヴィッツが「摩擦」と述べたように、その場その時点での複合的な人間の要因、天候や自然環境、予測困難な敵との相互作用等から、錯誤の連続となる。 戦術レベルの演習は、そうした予測不可能に身を晒しながら、必要性と可能性のバランスを考慮し、コストとリスクを勘案し、任務達成の程度を決める。 そしてそれは、戦場・戦闘を想定した疑似訓練のみならず、災害派遣や国際貢献(PKО)の現場での反射・反復訓練の実施と成功体験、儀式等の制度的仕掛けによる名誉や大義の強調を通じ、個々の士気・集団規律といった無形の要素が習得されている。 昨年末の読売・ギャラップの世論調査によると、「信頼される国内組織や公共機関は何か」との設問に、「自衛隊」が過去最高の78%(複数回答、前回71%)で、3年連続トップという報告記事が昨年12月16日に報道された。 この様に、国民から熱気を込めた期待を受ければ、当然、自衛官は自己の使命に対し不動の信念と誇りを抱くはずだ。 そうした期待が、民主主義国家の軍隊に共通してみられる逞しい士気や積極性を生む源泉となり、「天皇の軍隊」とか「忠誠の対象」議論をしなくとも「事に臨んでは危険を顧みず・・・」国家の独立と安全のために尽くすことになる。 独りよがりの空挺団勤務を書いたが、40年近く勤務された自衛ОB、また現役の諸君にとっては、それぞれの職場や環境で同じような体験をされ、認識を持たれたと思う。 陸上自衛隊は「現場感覚」を重視する人事管理・ローテイションを行っており、その成果について確信を持っている。 我々の後輩は、いざというとき、身命を賭して必ず働いてくれる。 いや、今もその日に備え、まじめに・真剣に訓練・災害派遣・防衛行動に備えている。 むしろ我々は、それを信じてそれを誇りにするにとどまらず、彼らの名誉や恩賞や処遇を改善する政策の推進に力を貸す時ではなかろうか・・・。 (2014.02.24)
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喜田 邦彦
6区隊 職種:普通科