コロナ騒ぎで約3年間海外旅行に出かける機会がなかったけれど、やっとコロナ騒ぎが落ち着き、私の中の「旅の虫」が騒ぎ始めました。 何処にしようかなと思いを巡らせ、アドリア海東岸諸国(バルカン半島北西部)を探訪することにしました。 この地域は北海道とほぼ同緯度にあり、時期も11月中旬なのでもう寒いかなと心配半分で決行しました。 ターキッシュエアラインズを使ってトルコのイスタンブール経由でボスニア・ヘルツェゴビナ、モンテネグロ、クロアチア、スロベニアの旅をします。 今回の旅行記では「食レポ」を強化してみたいと思います。 第1日 成田からイスタンブール経由でサラエボへ 成田からターキッシュエアラインズで約14時間。ボーイング787−9でトルコのイスタンブール空港に向います。 ウクライナでの戦争の影響かなのか、ロシアの南側をくねくね曲がりながらトルコに向いました。 コロナ以前のフライトでは食後、窓を閉めて、機内を暗くしていましたが、今回は電気的に窓のフィルターを変化させて夜の雰囲気にしていました。太陽が満月のように見えたので写真を撮ってみると、全然違った画面になっていました。 約1時間の乗り継ぎの後、同じくターキッシュエアラインズのエアバス300−20で約2時間。かなり古そうな機体でしたが何とか無事にボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボのブトミル・サラエボ国際空港に到着しました。 現地時間は19時30分で、日本との時差は8時間です。 サラエボのHOTEL RANDON PLAZAに到着しました。 朝食は16階の展望食堂で摂りましたが大変美味しく、旅の行先が楽しくなってきました。 サラエボの町はディナルアルプスにぐるっと囲まれた盆地になっており、雲がかかった気持ち良い朝を迎えました。 第2日 サラエボからモスタル・ドブロブニクへ 先ずボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボの町を観光しましました。 ボスニア・ヘルツェゴビナは、東南ヨーロッパのバルカン半島北西部に位置し、ボシュニャク人とクロアチア人が主体のボスニア・ヘルツェゴビナ連邦と、セルビア人中心のスルプスカ共和国の二つの構成体からなる連邦国家です。 広さは5.1万km2、人口は約323万人でボスニア語、セルビア語、クロアチア語が使用され、宗教はイスラム教、セルビア正教、カトリックが信仰されています。 6世紀にはスラブ人が定住を開始し、14世紀にはボスニア王国を確立、15世紀に入るとオスマン・トルコによるボスニア征服、19世紀にはオーストリア・ハンガリー帝国の統治下となり、20世紀にはセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国領となり、1945年旧ユーゴを構成する共和国の一つとして発足するという複雑な歴史をたどります。 ユーゴスラビアから独立したボスニア・ヘルツェゴビナでは1992年から1995年まで民族(宗教)間の紛争が続き、歴史・文化遺産が破壊されました。 民族間の不信感が今も根深く残っているけれど、各民族共通の目標であるEU加盟に向けて、国内の諸改革に取り組んでいるそうです。 サラエボの町を観光 1914年にオーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者であるオーストリア大公フランツ・フェルディナントと妻のゾフィー・ホテクが、サラエボを訪問中、ボスニア系セルビア人の青年ガヴリロ・プリンツィプによって暗殺されました。 この事件が第一次世界大戦の発端となりましが、現場のラティンスキー橋とサラエボ市役所を見てきました。 ラティンスキー橋のすぐ傍に博物館がありました。 古くからのキャラバンサライが維持されていました。 カトリックの大聖堂の前では敬虔そうな人達が説明に耳を傾けていました。 オスマントルコ帝国に支配された時代も長く続き、モスクが建てられていました。 古都モスタルへ サラエボの南西約70kmにある古都モスタルへ約3時間かけて移動します。 ボスニア・ヘルツェゴビナ第2のネレトバ川沿いに進みます。途中、ユーゴスラビアからの独立に伴う内戦で橋が破壊されてそのままの姿になっていました。 更に進んで行くと豊かなブドウ畑が開けてきました。この国のワインは美味しい評判ですが、産出量が少ないので輸出はされていないようです。 モスタル市街に到着。カトリックの教会が建てられています。内戦の銃弾跡も保存されていました。 モスタル市街にあるオスマン朝時代のスタリ・モスト(古い橋)は、内戦時に砲弾によって崩れ落ちてしまいましたが、現在は創建当時の姿に再建されて2005年には、ボスニア・ヘルツェゴビナ初のユネスコ世界遺産に登録されました。 あの悲惨な歴史を忘れるなという碑が残っています。 スタリ・モスト(古い橋)の右側にはセルビア人、左側にはクロアチア人が対峙していたそうです。 風光明媚なモスタルはドブロブニクからの一日観光が可能で、観光シーズンには浅草寺やディズニーランド状態になるそうです。 オスマントルコに征服された時代が長く、橋のたもとの店ではトルコ風の土産が売られていました。 観光シーズンを外れていたので昼食もスムーズにとることが出来ました。 トルコ風のチェバプチチというケバブのような挽き肉料理でした。 約2時間バス移動をしてボスニア・ヘルツェゴビナから国境を越えて、クロアチアのドブロクニクヘ移動しました。 私達が泊まったLEROというホテルはヒルトンホテルの近くのホテルでした。 第3日 クロアチアのドブロブニクからモンテネグロのコトルへ クロアチアは1,000を超える島々を抱え、広さは5.6万km2(九州の約1.5倍)、人口390万人で、首都はザグレブ、公用語はクロアチア語です。 クロアチア人が91%を占め、宗教はカトリック、セルビア正教等です。 クロアチアではサッカー人気が高く、2018年のワールドカップでは準優勝、2022年のワールドカップでは日本にPK戦に勝って3位になっています。総合格闘技のミルコ・クロコップもクロアチア人です。 ドブロブニク市内を観光 ドブロブニクは「アドリア海の真珠」とも呼ばれ、町の起源は古くローマ帝国時代、あるいはそれ以前に溯るとされており、イタリア語では「ラグーザ」とよばれていました。 貿易で栄えた都市で16世紀に完成した巨大な石の壁に囲まれた独特な旧市街で知られています。 イタリアのベネチアからやって来たクロアチア人は、この地の小島に町を作りました。山側と小島の間には海峡があり、以前から山側に住んでいたスラブ人から水の補給を受けていました。 その後、海峡は埋め立てられて中央通りになり、その両側に町が発展し、一時「ドブロブニク共和国」として独立をしていました。 ピレ門から旧市街へ入って観光しましたが、この季節は天候が変化しやすく、青空が見えたり、小雨がパラついたりしていました。入口付近にオノフリオの大噴水と中央広場があります。 フランシスコ会教会や大聖堂を見て歩きました。 旧総督邸は市役所や博物館になっており、裏側にまわると港に出ました。 総督邸でこの港に着いた貿易船の手続きを行っていたそうです。 なお、現在のクルーズ船などの大型船はこの港では狭すぎるので、新港を使用しているそうです。 青空市場は観光シーズンの賑わいはありませんが、果物や、土産物などを売っていました。 この広場でジェラートを食べたりしました。 昔から住んでいたスラブ人の町が山側に広がっていました。 町を取り囲む城壁は2000mほどあり、そのうちの3分の1ほどを歩きましたが、上下があり結構きつかったです。 曇り空から時折光がさす中、城壁から見た旧市街の赤屋根にジブリの世界を感じました。 旧市街から少し行った所でパスタの昼食をとりました。 モンテネグロのコトルへ 午後、クロアチアのドブロブニクから2時間半ほど移動をして、モンテネグロのコトルを観光しました。 モンテネグロは岩の多い山々や中世の村々、アドリア海に沿った細長いビーチで知られています。 面積は1.4万 km2、人口60万という小国で、宗教はセルビア正教、イスラム教、カソリックです。モンテネグロ人が45%、セルビア人が29%で、公用語はモンテネグロ語です。 6〜7世紀にスラブ人がバルカン半島に定住した後、14世紀にセルビア王国が樹立されました、その後、セルビア人たちはオスマン・トルコに追い立てられ、この地に逃れてきましたが、14世紀末にはオスマン・トルコに支配されました。 その後、ユーゴスラビア王国の一員となりましたが、2006年「モンテネグロ共和国」として独立を宣言し、2007年に国名を「モンテネグロ」に変更しました。 国名のモンテネグロはイタリア語で「黒い山」を意味し、その代表が黒い玄武岩でできた聖なる山、ロブチェン山です。 フィヨルドのようなコトル湾の沿岸には、教会や、コトル、ヘルツェグ ノヴィなどの要塞の町が点在しています。 コトルへの道は海岸道をくねくね走って行くと時間がかかるので、フェリーを使ってショートカットしました。 コトル湾の最奥にある世界遺産のコトルの町は、三方を険しい山々に囲まれた要害の地であり、天然の良港であり、古くから多くの交易船が行き交い城塞港湾都市として栄えてきました。 市街地の上には総延長4.5kmの古代の城壁が築かれています。 一辺300mの三角形のような小さな町の入り口には大砲が据え付けられています。 城門を入ると時計台があり、このエリアが中央広場になっています。 この町は200年に一度地震に見舞われ、要塞も町並みも何度も建て替えられています。 セルビア教会ではこの町の守護神「聖トリュファン」を祭っています。 オスマン・トルコが支配した歴史を残す商店が並んでいます。 貴族たちの屋敷や宮殿はホテルや商店に生まれ変わっています。 ライトアップされると山の上まで要塞が築かれているのがよく見えます。 コトルは小さな要塞の町なのに、ドブロブニクから一日観光で行けるので観光シーズン外でも観光客で溢れています。 クルーズ船も立ち寄るのでオーバーツーリズム状態です。中国人の観光客を多く見受けました。 2時間半ほどかけて、アドリア海に面する南クロアチアの都市ドブロブニクに戻りレストランでシーフードリゾットの夕食をとりました。エビの他にご飯の中にも貝が沢山入っていました。
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アドリア海東岸諸国探訪
2023.11.15〜11.22 (前編)