「竹塩」で有名な開岩寺で聞いたお経「南無大悲観世音」

「生涯学習の一環として古代史を勉強してみようかな」と思っていたところ、「百済の故地を巡る旅」に行かないかという話があって、喜んで参加してきました。
この旅では行楽地は訪れず、ひたすら王都とそれを守る山城と唐・新羅の連合軍と日本軍が海戦を行った白村江の候補地を巡りました。
結論として、超初心者のこの旅への参加はあまりにも無謀であり、「猫に小判」「豚に真珠」状態でしたが、そこは楽天家の私でもありますので、「これからの学習の第一歩」と前向きに捉えています。
多分、このレポートは間違いだらけで、厳しいご叱責を受けると思いますが、韓国の料理情報も入れてありますので、許していただければと願っています。

さて、旅に出る前に基本的なことを復習しておきましょう。

百済王朝の時代区分
・ 前期-漢城(現在のソウル)時代 (346年~475年)
  近肖古王が即位して以来、高句麗と係争しながら王国を維持してきた。
  475年に高句麗の攻撃を受け、熊津(現在の公州)に遷都した。
・ 中期-熊津(現在の公州)時代  (475年~523年)
  文周王、東城王、武寧王、聖明王の統治した時代で、高句麗や北魏からの攻撃を新羅の救済を受けて防いだ。
・ 後期-泗沘(現在の扶余)時代  (538年~660年)
  聖明王が泗沘に遷都し、威徳王、武王、義慈王が統治するが、660年、唐・新羅連合軍に滅ぼされる。
  義慈王は妻子とともに長安に送られ、その地で病死した。

百済王朝の滅亡以降
・ 660年、百済が唐・新羅連合軍に滅ぼされた後も鬼室福信らは百済復興軍を起し、泗沘城(扶余)の奪還を試みた。
  また、鬼室福信らは、人質として倭国に滞留していた余豊璋(義慈王の王子)の帰国と、倭国の軍事支援を求めた。
・ 663年、百済復興の支援に向った日本の海軍が白村江で唐・新羅連合軍に大敗。
  余豊璋は高句麗に逃亡し、百済は滅亡した。
・ この後、唐が高句麗を滅ぼして一時、支配をしたが、新羅が唐の支配を破って約250年間、半島を支配した。   

日本との関係
・ 503年、百済武寧王が倭国に遣使。
・ 538年、百済から仏教伝来。
・ 645年、大化の改新。中大兄皇子と中臣鎌足らが、蘇我一族を滅ぼした。
・ 660年、斉明天皇・中大兄皇子は鬼室福信らの要請に基づいて軍を派遣して、百済復興を支援することとした。
・ 661年、斉明天皇が九州の朝倉宮で崩御。 662年、中大兄皇子が称制。
・ 663年、百済救援の日本水軍が、白村江で唐・新羅連合軍に大敗。
・ 天智天皇(中大兄皇子)は唐・新羅連合軍の日本侵攻に備えるために、壱岐・対馬及び九州の大宰府周辺から、
 瀬戸内海沿いに奈良の都まで山城を築き、更に大津京に遷都した。

白村江・周留城はどこ?
・ 西海岸の錦江河口付近(忠清南道)、牙山湾付近(忠清南道)、東津江河口付近(全羅北道)等が候補案になっている。
・ 今回のツアーでは白村江候補案を現地で確認することが1つのテーマだった。 
・ 周留城は、百済復興軍の拠点とされ白村江と強いつながりがある。

第1日目(3月10日・月・晴)
羽田からソウルへ、そして一路、扶余へ。百済後期の王都跡を研修します。



羽田空港国際線ターミナルからJALで出発。富士山の見送りを受け、2時間でソウル金浦空港へ。


ボーイング767機が金浦空港へ着陸して、バスの車窓から見るソウルの街は、高層ビルが林立して思わず「すごい!」と、うなりました。
聞いてみると韓国では地震が無いそうでなるほどと納得しました。
ところで、韓国では新車がたくさん走っていますが、日本車は1台も見かけません。
関税が100%かかり、部品代もべらぼうに高いため、ほとんどがHyundai、KIA等の韓国車です。
ベンツなどのヨーロッパ車はFTA協定によって安く入ってきているようでした。


ソウルから郊外に出ると道端に土まんじゅうが目立ってきました。
韓国は土葬が認められており、地方では日当たりが良く、お墓詣りをしやすい丘には至る所、土まんじゅうがあります。
ただし、ソウルは高層住宅に人口が密集しているので火葬になってきたそうです。
さて、ソウルの百済前期の史跡研修はパスして南に走り、百済後期の都、扶余に向かいます。(風納土城の画像をアップします。)


扶余の史跡
扶余は白馬江沿いにある百済の都・泗沘と同じで、今も多くの人が住んでいます。
           (クリックで大きくなります。)


百済の首都として世界遺産に登録することを目指して、遺跡の修復が精力的に行われていました。
王城のすぐ外に陵墓や陵山里寺があり、その遺跡発掘にあたられたシン先生の案内で現地を見てきました。
この地で発掘された百済金剛大香炉は百済を代表する国宝です。


陵山里寺址の発掘現場
扶余の王都のすぐ傍にある陵山里寺や、羅城(王都を防衛する城壁)の発掘状況や王陵を研修しました。
日本の古代の城壁と同じ作り方の版築構造について説明を受けました。


扶蘇山城
扶余(泗沘)の王都を守る山城で、山頂付近には貯蔵庫跡があり、長期戦も出来る構造になっています。


更に山城を進んで行くと、百花亭に出ました。百済が唐・新羅の連合軍に滅ぼされた時、官女達が百花亭の前の岩から白馬江に飛び込んで亡くなったそうです。
山城から下りると、王宮跡に出ました。


第2日目(3月11日・火・晴)
扶余から長谷面山城、任存城、牙山湾そして温陽を巡りました。




羅城の現地確認
朝食前に、ホテルのすぐ傍にある羅城(王都を守る城壁)の修復状況を見に行きました。
百済時代の礎石の上に、石垣を積んで修復しています。


扶余国立博物館
博物館には、百済金剛大香炉の実物など、貴重な出土品などが陳列されていました。
聖明王(聖王)の像が飾られていました。聖明王は武寧王の子で百済の第26代の王で、524年正月に即位したといわれています。
日本書紀などによると、聖明王は538年、倭国に使者を送り、金銅の仏像一体、幡、仏教経典などを伝えたそうです。


恩山別神祭
長谷面山城への移動の途中、鬼室福信を祭った恩山別神祭に立ち寄りました。
鬼室福信は、660年、百済が唐・新羅連合軍に滅ぼされた後も抵抗運動を続け、倭国に滞留していた余豊璋(義慈王の王子)の帰国と、倭国の軍事支援を求めました。
帰国後の663年6月、百済王豊璋はともに戦ってきた福信の謀反を疑って捕らえ、福信の首を斬らせたそうです。


長谷面山城
忠清南道洪城郡長谷面の山城は、頂上付近に洞窟があることなどから、地元の人は周留城だと主張しています。
この山城は茨が多く、攻め登るのは大変だと思いましたが、多くの兵が戦った城としてはちょっと小さすぎるようでした。
長谷面の山城の麓から、鶴城山城が見えます。


田舎風タラ鍋とプルコギ鍋
長谷面山城の現地確認が終わったところで昼食をとりました。ここではボリュームたっぷりのタラの鍋料理を食べました。
また牙山湾の現地確認後、夕食は温陽で多分プルコギだったと思う鍋料理を食べました。


任存城(忠清南道礼山郡・鳳首山城)
任存城は鳳首山の頂上を石の城壁で囲んだ大規模な山城で、この城では663年、周留城陥落後、百済王らが最後まで戦いましたが、ついに陥落し、百済復興運動は完全に終息しました。
豊璋は最後は高句麗に逃走したそうです。
西の正面は強固な石垣で山側からの侵攻を防ぎ、東はきびしい斜面と石垣で海側(牙山湾)からの侵攻を防ぐ構造になっていて、全周を周ると時間がかかりすぎるので半分で済ましましたが、それでも結構時間がかかりました。


牙山湾
その後、ツアーメンバー一同は、北に向かって牙山湾まで移動して景観を見ました。 
牙山湾沖が白村江だという説がありますが、牙山湾は日本から遠いだけでなく、昔から今日に至るまで、中国の山東半島との海上交通が盛んで、唐の水軍の勢力範囲の真っ只中に日本の水軍が突っ込んで行くとは考えられないというのが大勢を占めました。

さて、今日、第2日目は長谷面山城と任存城を歩き回り、くたくたになったので、温陽のホテルの天然温泉につかって、足つぼマッサージをしてもらって疲れを癒すことにしました。
韓国には、温泉は殆んど無いらしい中で温陽は貴重な温泉地です。
ちなみに韓国の人は、夜の風呂より朝風呂の方が好きなんだそうです。


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 百済王朝ゆかりの地を巡る旅   
     2014年3月10日~15日 (上巻)