百済王朝ゆかりの地を巡る旅   
    2014年3月10日~15日 (中巻)  


第3日目(3月12日水・曇りのち雨)
雨模様ですが、忠晴南道・世宗から公州、論山を経て群山まで旅をしました。

         (地図はクリックで大きくなります。)


百済国義慈大王慰魂碑(高山寺)
今日はまず忠晴南道・世宗特別自治市にある雲住山城を研修することになり、麓まで行ってみました。
山城に登ってゆく道が分からず、ああだ、こうだと議論をしていたが、丁度、高山寺というお寺があったので、そこの住職さんに聞いてやっと雲住山城への道を確認しました。
そのお寺に百済国義慈大王慰魂碑があり、義慈王が慰霊されていることが分かりました。


雲住山城
さて、色々ありましたが、立派に修復された山城の西門に到着しました。
雲住山城は660年、百済が滅亡した後、余豊璋や鬼室福信、道琛将軍を先頭にした百済復興運動の最終抗争地となった山城です。
中に入ってみると山城は公園になっていました。
韓国の人は山歩きが好きで、城内はハイキングコースになっており、どうしてうまく入口に到達できなかったか不思議です。


公州城
更に南に進んで公州城に到着しました。
公州は今も大きな都市ですが、475年~523年の間、百済王朝中期の都だった熊津そのものです。
660年の百済滅亡の時には、唐・新羅軍の攻撃を迎え撃った山城でもあります。


城内には、往時を偲ばせる宮殿の跡などもありますが、西門からの眺めはいかにも攻めにくい山城という感じがします。


韓国風懐石料理
昼食は韓国村という所で韓国風懐石料理をいただきました。料理が程々の時間をおいて出てきます。
ピリ辛にうんざりしかけていた所に、上品で薄味の料理が出てきて感激しました


百済軍事博物館
午後は、論山の百済軍事博物館を訪問しました。
ちょっと怖そうな名前ですが、中身は城壁の作り方など私でも理解できるように工夫されています。


百済軍事博物館と同じ敷地の中に「階伯(ケベク)将軍」の墓があります。
階伯将軍は660年の百済最後の闘いで5000人の部下を率いて5万人の唐・新羅連合軍を論山・ 黄山伐で迎え討ち、4回の戦闘を行った後、壮烈に戦死した勇将です。
残念ながらこの日は大雨になって階伯将軍の写真が撮れなかったのでインターネットからの写真を載せさせていただきました。


江景(忠清南道論山郡)
西に走って錦江中流の曲がり角にある江景に到着しました。
雨でかすんでいましたが、錦江を航行する船団の動きが手に取るように見えます。
ここにはのろし台があります。のろし台は5km~7kmの間隔で設置され500kmも情報を伝えていたようです。


加林山城(聖興山城)
加林山城は扶余の南方に位置する聖興山(標高260m)の山頂にあり、難攻不落の城として有名です。
巨大な石の山を見ただけで攻めるのが嫌になるような山城で、百済復興運動でも重要な拠点になったそうです。
山上には巨木が生えており、水もあったため兵糧攻めにも強かったようです。


南山城(錦江河口)
百済時代には錦江河口のこの辺りは島だったようです。
南山城は錦江沿いに侵攻する敵を発見することをミッションにした山城で、戦闘用の山城とは言えないようです。
百済時代の石垣があり、頂上部にはサテライトテレビのアンテナが立っていました。


今日は一日、よく動きました。
到着した群山は錦江が海に至る川口でこの辺りが白村江だと多くの人が言っています。
ここでの夕食には鴨のトッカルビ(ハンバーグのようなもの)を食べました。 冷麺もおいしかったです。
夕食を済ませて群山のホテルに着いた時は9時を過ぎていました。


第4日目(3月13木・曇りのち雨)
今日は群山から、白山(金堤市)、古沙扶里、開厳寺、禹金山城、来蘇寺を経て辺山半島の格浦まで旅をします。




群山の見晴台
群山の見晴台から白村江の候補エリアを見ようとしましたが、残念ながら曇りで視界がききかず、しかも、見晴台には桜の木が茂っていてギブアップ状態でした。
しかし、麓には日本が統治していた時代のお寺や住宅が残っていて、思ってもみないものに巡り合いました。


白山(全羅北道・金堤市)
次に白山に行きました。この辺りは、農業が盛んな土地で、明日発掘現場に行く碧骨堤(ピョッコルチェ)もここから見えます。
白山は日清戦争の引き金になった東学党の乱(甲午農民戦争)の中心地で、記念碑と連判状の写しが残されています。


古阜(全羅北道・井邑市)
古阜に到着しました。ここは、ちょうど小学校のある所に朝鮮王朝の官庁があった所で、昔は多くの人がいたようですが、今では田舎の村のような感じです。
この小学校の裏山に古沙夫理城があるはずですが、屋内運動場でゲートボールをしていた村の古老に聞いてみても、日本語で「わかりません。」との返事が返って来た。
ガイドさんが村役場へ行って、やっと入り口を知っている人を見つけてきてくれました。


古沙夫理城(全羅北道・井邑市)
山への入り口を案内してもらって登ってみると、古沙夫理城は修復作業の真っ最中でした。
基礎部分に百済様式の石垣が残っていました。


タットリタン
雨と寒さと空腹でやや参っていましたが、開厳寺の前で遅い昼飯を食べられる店に到着しました。
豪快な鶏のブツ切り鍋タットリタンを食べ、すっかり元気になりました。


開厳寺(開岩寺・全羅北道・扶安郡)
開岩寺は、634年百済時代に創建された静かな寺で、奥にある岩の山で百済再興運動を繰り広げられました。
宝物に指定されている大雄殿は建物の姿も端麗です。
韓国土産で人気のある「竹塩」はこのお寺で昔から作られていたものだそうです。


禹金山城(位金岩山城)
開岩寺の裏山にある山城で、周留城の候補地です。右の基台の上に余豊璋の屋敷があったと言われています。


来蘇寺(全羅北道・辺山半島国立公園の南側)
来蘇寺は百済の武王34年(633年)に創建された古刹で、このお寺で「チャングムの誓い」の撮影が行われたそうです。


格浦(辺山半島国立公園の先端)

その後、白村江の可能性がある茁浦湾沿いを走りましたが、雨で見晴らしがきかないままで、宿泊は辺山半島国立公園の先端、格浦のリゾートホテルになりました。

海鮮鍋
夕食をとるため店に入ってみると、足の踏み場もない満員御礼状態。「こういう店がおいしいんだ。」ということで、押しかけました。
漁師の奥さん風のお姉さんが名物の渡り蟹や魚をばっさばっさとハサミで切って行く豪快さはまた格別でした。



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