チュニジア世界遺産の旅
2019.2.6〜2.13 (前編)
「チュニジア」と言うと何を思い浮かべますか? チュニジアは「カルタゴ」の興亡の歴史で有名ですが、最近では2015年に発生した「チュニジアテロ」で日本人旅行者3名を含む18名が死亡した事件でさらに有名になりました。 また2010年に自由民権運動としてチュニジアでスタートした「ジャスミン革命」は「アラブの春」へ広がってアラブ社会に混迷をもたらし、その後「シリアの内戦」へと繋がっていきました。 2015年の「チュニジアテロ事件」以降、日本の外務省はチュニジアに「レベル2」(不要不急の渡航は止めてください)という危険情報を出していましたが、昨年4月からかなりの地域で「レベル1」(十分注意してください)に引き下げたため旅行会社によるツアーが再開しています。ただし国内には「レベル2」や「レベル3」(渡航は止めてください)の地域もかなりあります。 今回はフェニキア人によるカルタゴ建設、その後のローマ、ビザンチン、イスラム、オスマン帝国、フランスによる支配・保護に続くアラブ人の定着と激動の歴史を残す世界遺産と、青い海と白い家が美しいと評判が高いチュニジアを訪れたいと思います。 チュニジアという国 「チュニジア共和国」の人口は約1000万人、広さは約16万km2で日本の本州の約半分です。アラブ人が98%を占めており、ほとんどがイスラム教徒(スンナ派)で、公用語もアラビア語ですが、フランス語も広く普及しているそうです。 首都のチュニスは北緯37度、仙台くらいの所にあります。 (国旗) (国章) まあ、これくらいの予備知識で「チュニジアの旅」に出かけましょう。 1日目 旅の初めに 22:00羽田の国際ターミナルに集合して真夜中00:30の出発です。 サービスがいいこと、美人のアテンダントさんがいることで定評のあるエミレーツ航空のEK313 / B777-300機で先ずドバイまで約11時間のフライトを楽しみます。 ドバイに早朝06:15に到着して、約3時間待って、09:00発のチュニジア行きEK313 / B777-300機に乗り換えて約6時間半のフライトを楽しみました。日本とチュニジアの時差は8時間です。 ところで、チュニジアには世界遺産が8つもあるそうですが、どこにあるのでしょうか? 今回の旅では8つの世界遺産全てを巡ります。 2日目 スース チュニス・カルタゴ国際空港に到着後、2時間バスで移動して「サヘル(地中海沿岸地方)の真珠」と呼ばれているスースへ向かいます。 スースは紀元前9世紀、フェニキア人によって建設されたチュニジア第3の都市で、アラブの雰囲気が漂うリゾートエリアとしても有名な土地です。 メディナ内のグランドモスクはアラブ時代の851年に建てられたモスクで要塞の役も果たしていました。 スーク(市場)も活気がありました。オレンジなどの柑橘系がおいしそうです。 やや疲れましたが、この日の観光を終えてド派手なイルミネーションで飾られたスース・パレスホテルに到着しました。 このホテルでは2連泊するのでほっと一休みです。 翌朝、町を歩きましたが町の中央にハビブ・ブルギバチュニジア共和国初代大統領の騎馬像がありました。 ジャスミン革命を経た今も人気は高いそうです。 更に歩いて行くと地中海に面した大きな港に出ました。 スースは重要な地中海貿易港だそうです。 3日目 ケロアン スースからケロアンに続く道の両側には世界4位の生産量を誇るオリーブ畑が続きます。 2015年に起きたテロ事件後落ち込んだ観光客を呼び戻すことを目指して道路工事が行われていました。 ケロアンはイスラムの世界ではメッカ、メディナ、エルサレムに次いで4番目に重要な聖都です。 モスクのミナレット(塔)は35mあり、世界に現存するなかで最も古いと言われています。 ケロアンのグランドモスクに7回お参りするとメッカに1回お参りするのと同じ有難味があるそうです。 礼拝堂の扉はレバノン杉に装飾が施されており、内部は男女の礼拝場が左右に分かれています。 シディ・サハブ霊廟へ賑やかな音楽を鳴らしながら一団が入って行きます。 先頭のえんじ色の服を着た二人の少年達が「割礼の儀式」を受けるそうです。 シディ・サハブ霊廟は美しいアラベスク模様のタイルが使用されています。 アグラブ貯水池は9世紀、アグラブ時代に14箇所造られ、現在も4箇所が浄水場として使用されています。 売店のおじさんがパフォーマンスをしてくれました。 ケロアンのメディナも賑やかです。デーツ(ナツメやし)を車いっぱい積んで売っています。 レストランでブリックとカムニーアの昼食をとりました。 ブリックはクレープに卵・パセリ・ツナなどを包んであげたものです。 カムニーアは牛肉と牛の肝臓を茹でてクミンソースで食べる庶民食だそうです。 エルジェム スースからバスで1時間ほどの所にエルジェムの町があり、闘技場(コロッセオ)を観光しました。 この遺跡は3世紀頃にエルジェムの植民市がローマに対抗するために作られたもので、35000人も収容でき、世界で3番目に大きな闘技場で、保存状態も大変良いということです。 闘技場では剣闘士が猛獣と戦います。 剣闘士も猛獣も地下室で待機をし、ここからエレベータで地上に上がってきます。 エルジェムの闘技場の近くにエルジェム博物館があります。 ローマ時代にオリーブを生産してローマに輸出して財を成した大富豪の家を博物館にしています。 モザイクは大理石や色のついた石の小片で模様を作るもので、床や壁に飾られていました。 膨大な出土品はこの博物館に展示されると共に、国立のバルドー博物館にも展示されています。 4日目 ナブール・ケルクアン・ボン岬 この日チュニスの近郊にある親指のようなボン岬半島にあるナブール、ケルクアン、ボン岬を観光します。 ナブール ナブールは陶器を作るための良質の粘土が取れて昔から有名な陶器の町でしたが、レコンキスタ(キリスト教団によるイベリア半島の再征服活動)によってスペインのアンダルシアから追われてきた陶器職人たちが加わり、技術が融合して発展したそうです。 ケルクアン ケルクアンはボン岬の近くにあったフェニキア人の都市で、ほぼ400年間存在した後、第一次ポエニ戦争の間に放棄されたそうで、この町は1952年、考古学者シャルル・ソマ−ジュによって偶然に発見されました。 カルタゴの遺跡などは、フェニキア人の町を破壊してその上にローマ人の町を作った遺跡ですが、ケルクアンの遺跡は小規模ですがフェニキア人の遺跡として残っている貴重な遺跡だそうです。 この町には陶器製造が行われた跡があり、各戸はだいたい規格化されており、下水路が海岸まで伸びています。 海岸には港の跡があり、フェニキアの交易都市の様子が見られます。 ハイビスカスやアロエの花が静かに咲いていました。 ボン岬 レストランで昼食をとりました。オジャは炒めたピーマン・魚介類などをトマトソースなどで煮込んだものです。 ボン岬は風が強いので風力発電に適しており、チュニジア全国で設置されている200基の風力発電機のうち、ボン岬には50基が設置されています。 チュニス チュニスはチュニジアの首都で北アフリカ諸国「マグレブ」を代表する人口約110万人の近代都市です。 チュニスの新市街の中心地ハビブ・ブルギバ通り沿いにあるデラックスな高層のホテル・アフリカにチェックインし、14階から町を写してみました。 下の写真の右端に時計塔が見えますが、2011年のジャスミン革命を記念した「1月14日広場」(革命広場)です。 下の写真左側は町の中央部、右側はメディナ(旧市街)の方向です。 「1月14日広場」に出かけました。 内務省前にはバリケードが設置され、車が入り込めないようにはなっていますが、革命の緊張感はありません。 騎馬像はハビブ・ブルギバ初代大統領です。 中央部の独立広場では「I love Tunis」のマークの前が記念撮影スポットになっています。 こちらの銅像はチュニジア出身の中世の歴史学者・哲学者イブン・ハルドゥーンだそうです。 ハビブ・ブルギバ通り沿いのカフェは大いに賑わっていますが、客はほとんど男性、しかもノンアルコールという事でやや特異な感じがします。 フランス門を通ってメディナに入ります。 メディナの中は混みあっていますが、職人が金属のお盆に名入れをしていました。 グランドモスク前には老若男女がノンビリと座っていました。 メディナ内の迷路を進んで店の屋上に上がるとグランドモスクのミナレットが見えます。 本日の夕食はメディナの中のレストランでと言われましたが、いかつい鉄の扉の向こうには何があるのでしょうか? 扉を開けると昔のお屋敷を改装したという立派なレストランがありました。 食事のバックグラウンドとして、Taht yasminafiellilさんがウードの演奏と唄で「ジャスミンの木」などを演奏してくれました。 ジャスミンはちょうど日本の桜のようにチュニジアの国民から愛されているんですね。 ◎ 「ジャスミンの木」 Taht yasminafiellil
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