関西興奮(古墳)の旅

 去る8月末から9月3日まで4泊5日にわたり、全く土地勘のない大阪に一人で出かけてきました。 
近畿大学で「古代山城研究会」の例会があったので、それに参加するためです。 近畿大学は、中方航空隊のある八尾駐屯地の近くにあってマグロの完全養殖で有名ですが、今回は、マグロや研究会の議題であった「古代山城と軍制」の話ではなく、死ぬ前に一度は見ておきたい古墳を廻る旅を紹介します。 ちなみに近畿大学の校舎は、写真のように教会風の立派なものでした。

          

その1.箸墓古墳  

 最初に行ったのは、奈良県桜井市の「桜井茶臼山古墳」ですが省略し、次の三輪山の麓にある「纒向遺跡群」の「箸墓古墳」から紹介しましょう。 「纒向遺跡群」といえば、古代史をかじった人であれば余りにも有名な邪馬台国論争近畿説の中心地で、JR巻向駅を下車し歩いてすぐのところにあります。
 「魏志倭人伝」には卑弥呼の墓は、「径百余歩(145m)」とあり、全長280mの巨大な前方後円墳で、その規模が概ね一致するところから卑弥呼の有力墓とされています。 考古学の世界では諸説ありますが、前方後円墳最古の形態で3世紀前半の築造とされています。 今は宮内庁の管理下にあり、「倭迹迹日百襲姫命大市墓」(やまとととひももそひめのみことおおいちのはか)とされ自由な立ち入りはできません。

          

 丁度池を廻って遥拝所に出た時、タクシーで廻っているツアー客の老人が、若い女性二人に次のような話をしていました。 これは「三輪山伝説」と呼ばれています。

 「倭迹迹日百襲姫命は、大物主神(おほものぬしのかみ)の妻となった。 けれどもその神は、昼は来ないで夜だけやってきた。 倭迹迹姫命は夫に言った。 「あなたはいつも昼はおいでにならぬので、そのお顔を視ることができません。どうかもうしばらく留まってください。朝になったら麗しいお姿をみられるでしょうから」と。 大神はこたえて、「もっともなことである。明日の朝あなたの櫛箱に入っていよう。どうか私の形に驚かないように。」と。 倭迹迹姫命は変に思った。 明けるのを待って櫛箱を見ると、まことに美わしい小蛇が入っていた。 その長さ太さは衣紐(きぬひも)ほどであった。 驚いて叫んだ。 すると大神は恥じて、たちまち人の形とになった。 そして「お前は我慢できなくて私に恥をかかせた。今度は私がお前にはずかしいめをさせよう。」といい、大空を踏んで、御諸山(三輪山)に登られた。 倭迹迹姫命は仰ぎ見て悔い、どすんと座り込んだ。 そのとき箸で陰部を撞いて死んでしまわれた。 時の人はその墓を名付けて箸墓という。その墓は昼は人が造り、夜は神が造った。」(宇治谷孟『全現代語訳日本書紀』崇神天皇条)

 なお、三輪山は、高さ467メートル、周囲16キロメートル、ひときわ形の整った円錐形の山で、大物主神の鎮まります山、神体山として信仰されています。

          

 周囲にはあの有名な三輪ソーメンを食べさせる店がありました。 品の良いとても美味しい麺でした。

          

 最後に「纒向遺跡群」の大型建物について触れましょう。 2009年に纒向遺跡で今までにない大型建物跡が発見されたことはマスコミで大きく取り上げられましたのでご存知の方も多いと思います。 年代で言うと弥生時代終末期に当たる三世紀前半で、まさに邪馬台国の存在した時代ですから当然です。 今までに発掘された建物から推定して東西150m、南北100m前後の方形の大規模屋敷地が存在した可能性があるとされています。 建物は東西に4棟連続して作られ、軸線が一致するなど弥生時代の建物とは一線を画しています。 更に大規模な祭祀が推定される2,700個以上に及ぶ桃の種や多量の遺物が出土し、卑弥呼の「宮室」の可能性が十分とされたのです。 詳しくは、都出比呂志『古代国家はいつ成立したか』を参照してください。 古墳、特に前方後円墳の意味が良く理解できます。

その2.百舌鳥古墳群  

 奈良から次に向かったのは、大阪堺市にあるJR百舌鳥駅下車、歩いてすぐの「百舌鳥古墳群」です。 北は反正天皇陵古墳、南は仁徳天皇陵古墳を経て履中天皇陵古墳周辺、東西南北約4kmの大地に広がっています。 築造は、4世紀末から五世紀後半で、現在は44基がありますが、昔は100基以上あったとされています。

          

 「仁徳天皇陵」は日本最大の前方後円墳で、周囲約2,700m、面積464,000平方m、全長486m、三段に築造され、三重の濠がめぐっています。 この周辺は古くは百舌鳥野と呼ばれていたことから「百舌鳥耳原中陵」とも言われています。 考古学的には、日本書紀の仁徳・履中天皇の在位順とは逆に履中天皇陵古墳よりも後の5世紀中頃の築造とされています。

          

 古墳の遥拝所には歳のころ我々と同じくらいでしょうか、観光ボランテイアの老人が居て、小生と子供連れのヤンママの二人にチャートを持って一生懸命説明をしてくれました。 彼によれば、古墳の諸元のほか「現在大坂堺市などを中心にこの「百舌鳥古墳群」を「古市古墳群」とともに世界遺産にする運動を起こしています。 そのポイントは、「仁徳天皇陵」がエジプトのクフ王のピラミッド、中国の秦の始皇帝陵と並ぶ世界三大墳墓の一つであるところにあります。 しかし現在日本政府は、「高崎製糸工場」と「長崎教会群」を推しており、政治的に推す人の力がありません。」と残念がっておりました。

 確かに初めて遥拝所に行きますと、その巨大な姿に圧倒されます。 築造は20年をかけて築造されたとされていますが、その労力と5世紀中ごろにおける天皇の権力の大きさに驚くばかりです 。エジプトのピラミッドや中国西安の始皇帝陵・兵馬俑を見たことがありますが、「仁徳天皇陵」も規模的には引けをとりません。 「高崎製糸工場」や「長崎教会群」などよりは、はるかに世界遺産に相応しいと個人的には思いました。 ただし、世界遺産になるためには宮内庁の管理など難しい問題があるものと思います。
遥拝所の前にある大仙公園の「堺市博物館(老人無料)」には、明治5年(1872年)、前方部で竪穴式石室に収めた長持形石棺が露出した時に出土した、刀剣・甲冑・ガラス製の壺と皿などが詳細な絵図の記録で見ることができます。

 ただ残念ですが、御陵を上から見ることが出来ません。
ヘリコプター以外にただ一つ無料で上から見ることが出来るのが堺市役所の展望タワー(無料)です。 御陵からバスに乗って堺東駅に移動すれば、展望タワーの21階に登りますとやや横からですが、古墳を見ることが出来ます。 また、ちょっとした喫茶店で古墳カレーを注文し、完全な形の古墳の形を楽しみました。味はいま一でしたが。

          

その3.古市古墳群(大坂のオカン)  

 最後は「古市古墳群」です。 大阪府の東南藤井寺から羽曳野にかけて東西南北訳4kmの範囲に分布する古墳群で、最も大きい「応神天皇陵古墳」から大小127基の古墳が所在し、「百舌鳥古墳群」とともに謎の5世紀の「倭の五王」のうち何人かが葬られているものと推定されています。

 古墳群には近鉄「土師の里駅」で下車、雨が止んだので駅前の自転車屋でレンタサイクルを借りました。 古墳廻りには自転車が一番です(250円)。 地図を頼りに、まずは北から「允恭天皇陵古墳」、「河内国府遺跡」、「仲姫皇后陵古墳」を廻り、お目当ての「応神天皇陵古墳」に行こうと道に自転車を止めて地図判読をしていました。 すると白髪の老婦人が寄って来て「古墳めぐりをしているのか」と聞いてきました。 「そうですが」と答えると「何処へ行くのか」「「応神天皇陵へ行きたい」というと「ここからはあの道路標識のところを右に曲がり、「古室山古墳」の脇を抜けて西名阪自動車道をくぐり、細い道を通って大鳥塚古墳の横を抜けると「応神天皇陵古墳」に出ますよ」と親切に教えてくれました。

 何とかその通りに行き「応神天皇陵」の前で降りたら、なんとその老婦人が自転車に乗ってすぐ後にいるではありませんか。 驚いていると、「先ほどは口で教えたが、万が一道に迷ってはいけないと心配だったためついてきた。 自転車はここに置きなさい。 遥拝所までご案内しましょう。」というのです。 驚きながらも従って行きますと、「何処からおいでになったのか。」「神奈川県の相模原から参りました。」「実は私の弟が相模原の近く大和の下鶴間におります。」「いやー私は上鶴間ですからすぐ隣ですよ。」「それは奇遇ですね。」などなど、ともかくあまりの親切さに恐縮するばかりで、俺もまんざら捨てたものではないかとチラッと思ったりもしました。

          

 「応神天皇陵古墳」は、古市古墳群最大の前方後円墳で「誉田御廟山古墳」とも呼ばれています。 全長は425mと「仁徳天皇陵古墳」に次ぐ大きさで、古墳を築造したときに使用した土量は大仙古墳を上回る最大の古墳で、5世紀前半頃の築造と考えられています。 墳丘のまわりには二重の周濠が巡りますが、東側は先に造られた二ツ塚古墳を避けて少しいびつな形になっています。円筒埴輪や盾・靫(ゆぎ)・家・水鳥などの形象埴輪の他に、蓋形の木製品やクジラ・タコなどの土製品が出土しています。

 「応神天皇陵古墳」のお参りを済ませると、「次は何処に行くのですか」「次は遠いのですが「墓山古墳」に行こうと思っています」と答えると「それではご案内しましょう」と言われるではありませんか。 驚いて「いやーここからは遠いので結構です。」と言っても聞きません。 「私の後をついてきて下さい。」と軽やかに自転車をこいでどんどん行きます。 必死に追いかけて着いたところが「墓山古墳」でした。 古墳の前で、これ以上ご迷惑をかけるわけにはいかず、丁重にご親切に感謝する旨述べ、やっとお引取り頂きましたが、何という親切でしょう。 「秘密のケンミンショウ」などで「大阪のオカン」については面白く見ていますが、こんなに親切だったとは知りませんでした。 少なくとも関東では考えられません。 よっぽど小生がもてる真の証拠ではありませんか。 「大阪のオカン」に乾杯です。 残念ながらオカンの写真はなく、「墓山古墳」前の自転車の写真しかないのが残念です。

          

 なお、近鉄「喜志駅」周辺の聖徳太子廟の近くには大阪府立「近つ飛鳥風土記の丘」に「近つ飛鳥博物館」があり、古墳のあらゆる史料を展示していますので是非お出かけになったらいかがでしょうか。

 今回、古墳めぐりを投稿しましたのは、中埜君の要請もあるのですが、この最後の「大阪のオカン」を是非皆さんに紹介しようと思ったからで、古墳に「興奮」した理由がお分かりになって頂ければ幸甚です。 終わりに老婆心ながら、古墳廻りには良い天気と余裕ある時間、そして突然もてたときの若干の心構えが必要であることは言うまでもありません。
                                                                   (天野 記)


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1区隊(普通科)