ゴラン高原国連兵力引き離し監視軍(UNDOF)に派遣された陸自PKО部隊が、全員無事に帰国して1年になる。
自衛隊は1996年にUNDOFに参加し、6カ月交代・17年間で延べ約千5百名の要員を派遣してきた。
食料品や資材をイスラエル・レバノン・シリアから輸送する後方支援業務を担い、兵力引き離し地帯での停戦違反もほとんどなく、安定した環境で海外任務を経験できる「PKОの学校」とも呼ばれてきた。
ところが、2年前にシリアで反体制運動が始まり、情勢は一変した。
森本防衛相(当時)がPKО部隊に撤収を命令したのは、シリア内戦(政府軍と反政府軍の対立)激化により、隊員の安全と意義ある活動の両立が困難になったと判断した昨年12月21日だった。

 それから1年、現在のシリアは内戦の激烈化で化学兵器が用いられ、国連調査団が派遣されている。
「撤収の判断はやむを得なかった」と読売新聞は書いたが、本当に妥当な判断だったのか。
無事の撤収といわれるがリスクはなかったのか。

 ゴランPKОで最後の隊長を務め、全隊員と主要装備を帰国させた萱沼文洋3等陸佐(36歳・防大44期)は、その功績から産経新聞社主管の「国民の自衛官」に選ばれ、10月4日に表彰を受けている。(写真)
だがこの撤退にあたっては、銃弾こそ飛び交わなかったものの、隊員の安全や資機材は危険に晒され、「後退作戦」を余儀なくされていた。
結果的に緊急撤退作戦は成功したが、軍隊(自衛隊)・軍人(自衛官)としての誇りや名誉、国際信義に禍根を残したのも事実である。

 萱沼3佐にその実態について語ってもらった。

                     
                        【隊旗返還式に参列するUNDOF派遣輸送隊隊員】

情勢の緊迫→任務遂行の制約
 第34代隊長として萱沼3佐がゴラン高原に到着したのは、昨年(2012年)8月25日。シリアでは、政府軍による住民弾圧が激しさを増し、3月に日本大使館が閉鎖され、ダマスカスにおけるPKО活動も制限を受けていた。

 1年前から輸送要員44名(主力は第2師団)と、UNDOF司令部要員3人で編成された派遣準備隊は、日本各地で各種教育と対応訓練を重ねてきた。
出国に際しては、指揮を受ける中央即応集団(CRF)司令官から、「安全に徹した任務の完遂」を訓示された。
だから隊員は、「半年交代の翌年2月末まで、石にかじりついても任務を完遂する」意欲に燃え、先輩たちに負けるなとゴラン高原に赴いた。

 しかし出発直前、萱沼隊長は前任者から、「ダマスカス市街地は危険だから、国連から輸送任務を要請されても立ち入るな」との政府方針を伝えられた。
また、ダマスカスに入る必要のある輸送任務は、既に現地の民間会社に請け負わせている措置を承知した。
隊長のEEI(情報主要素)は、「シリア情勢を踏まえ如何に輸送任務を完遂するか」であり、そのため、UNDOF、シリア防衛駐在官、イスラエルの日本大使館から情報を収集し、日本の外務・防衛省、CRF・統幕・陸幕へ衛星電話で報告を重ねていた。

 11月上旬、UNDOF統合支援部長(文民・アイルランド)から、ダマスカス空港への国連要員送迎という要請を受けた。
隊長は「ダマスカス立ち入りは、政府から許可されてない」と伝えたが、「付与された任務ができないのでは軍隊と言えない」と突き放された。

 「リスクを負わない、あえてしない軍隊」と蔑まれたわけだが、PKО五原則は武器の使用やリスクを負う任務を禁じている。
そこで、イスラエル在住の日本大使がUNDOFに出向き、日本の事情と政府の見解を説明し、国連側に納得してもらった。
隊員ともども「実に悔しい思いをした」と、当時を振り返って隊長は語ってくれた。

 ところが11月27日、UNDOFのオーストリア隊がダマスカス空港に向かった際、武装勢力から襲撃を受けた。
同隊は国連マークの車両10両を連ね、かねて自衛隊も使っていた安全とされる経路上で、反政府勢力から射撃を受け、人員・通信機が被弾した。
更にそれらの救出に当たった同軍も攻撃を受けるという、計画的軍事行動だった。
こうした国連軍に対する襲撃事案を通じ、日本隊の全員が「シリア領内におけるUNDOFの輸送活動は、これまで以上の警戒心を持って臨まなければならない」と強く認識した。

内戦の波及→宿営地の危険
 9〜10月の間、ゴラン高原地域での政府軍と反政府軍の衝突は、まだ北部地域に限られていた。
兵力引き離し地帯(DMZ)の幅は4kmであり、日本隊の宿舎はイスラエル側(本隊)とシリア側(分遣班 )に分かれている。
その間を結ぶ輸送ルート(約10km)は複数あることから、日本隊に危険という認識はなかった。
だが11月になると、南部地域でも銃声が聞かれ始めた。

12月上旬。UNDOFから、「内戦に化学兵器(サリン前段階の保存状態)が用いられる可能性あり」との情報がもたらされた。
ダマスカス〜ゴラン高原は約40km離れているが、市内で用いられれば風向きによっては3時間後にゴラン高原に到達する。
 そうなれば、輸送任務どころか、隊員の生存そのものが難しくなる。だが、UNDOFにそれへの対処能力はない。
こう判断して、その情報を日本の関係機関に急報した。
森本大臣とも数回にわたりテレビ会議で見通しと安全策を報告している。

 部下の隊員に対しても、化学兵器に関する全ての情報を開示した。
いつ、どこでガスに遭遇するかわからないので「全員との情報共有」を統率方針としていた。
そして、防護マスク(派遣初期から携行)の常時携行(宿舎・睡眠中も近辺に置く)を命じ、アトロピンの使用について再教育を徹底した。
 さらに、輸送活動の継続や二つの宿舎間の往来に防弾車が不可欠と判断し、車両の購入を10月中旬にイスラエルに発注した。
装甲車(武器)の持ち込みが許されなかったためで、防弾ガラス・強化鋼版のある民生用車両だが、実際はそれを受け取る前に撤収した。
後で聞いたところ、その車両は南スーダンPKОに廻されたとか・・・。

 こうした情勢で、日本の関係機関の間に「PKО任務の遂行は限界」とみる意見が急速に高まったようで、上級司令部から「行動方針として(緊急)撤退もありうる」との見通しが初めて伝えられた。
「宿営地も危険に晒される」事態を想定したと思われる。
 新聞によると、政府(野田首相・森本防衛相・玄葉外相)がゴランPKО部隊の活動中止・撤収の方針を固めたのは、12月8日とされる。
これに基づき、政府は国連本部の了承を取り付けて撤収支援を要請し、年明け早々にも撤収を完了するため、調整を始めた。

緊急離脱→シリア側からの撤収
12月13日。中央即応集団司令から「ゴラン高原からの撤退準備」に関する指示を受けた。
数日前から萱沼隊長は、教範を紐解いて後退作戦を暗唱するまで読み込んでいた。
日本出発時には「生起しうるケース」と考えていた事態だが、対外的には秘密を要するので、当分はUNDOFへ通告しないと腹をくくった。

 というのも9月3日、UNDOFに加わっていたカナダ隊全員(3名)が、どこにも告げず突然帰国した。
UNDOFにとっては寝耳に水であり、シリアは「我々を見捨てるのか」と怒り、国連部隊への不信感を顕わにした。
それは、PKО部隊に対する嫌がらせとなり、シリアによる検問の強化、休戦ライン間の通行拒否に結びつく。
だから日本も、無通告・自主撤退をとらざるを得ない。
 もしシリアが撤退情報や兆候を察知すれば、シリア側のUNDOF本部・日本隊宿舎と、イスラエル側の日本隊宿舎の往来を妨害・阻止したり、最悪事態ではシリア側宿舎に残される隊員を人質にする。

 教範による後退行動の主眼は、@部隊の確実な掌握と、A隊員の士気高揚である。
またその要則は、@戦線の収縮・整理、A装備品等の係累の除去、B保全であり、Cその行動は「離隔」「離脱」の2段階で行うと書いてある。

 この状況で隊長の焦点は、@シリア側宿営地・分遣班15名の撤収による全隊員の掌握及び士気の維持、Aゴランからの完全撤収に向けた装備品の後送準備となり、それをシリア側に気付かれずに行うことが求められた。
 「撤退作戦」では、努めて不要なものを破棄し、最小限のモノだけを持って脱兎のごとく退くのがベターだが、「武器輸出三原則」や「物品管理法」という国内規定が適用される。
したがって、モノの仕分けと物品の収納・輸送準備に時間がかかる。
しかし一方で、現行の輸送任務を継続しなければ、シリア側に怪しまれる。
さらに、撤収の指揮系統はCRFだが、モノに関する業務系統は陸幕・補給統制本部であり、モノの処理に関する指示は届いてなかった。

 ところで、完全撤退を聞いた時の隊員の反応はどうだったか。
彼らの顔は蒼白になった。「半年の任期は、危険は覚悟の上で全うする」との強い気持ちでやってきたからだ。「完全撤退はウソだろう」という猜疑心。「どこかに一時退避し、また戻るのだ」という楽観論。「任務遂行の腰を折られた」という挫折感等が充満し、錯綜していた。

 「事に臨んでは身の危険を顧みず」の宣誓は、生きていた。
「この時ほど彼らのプロ根性を知らされたことはなかった」と萱沼隊長は、インタビューで息を詰まらせた。
安全無事に帰国できる、家族は安心するだろうなどと言える雰囲気ではなかったそうだ。

12月16日。UNDOF司令官に「日本隊の活動停止と緊急・完全撤退」を内々に伝えた。
「カナダの二の舞」はしたくなかった。
司令官は『あとは誰が引き継ぐのか?』と不満だったが、卑怯者呼ばわりされることはなかった。
彼は、今までの日本隊員の活動ぶりを十分知っており、本物のプロとして認めてくれ、『日本の要請を受け入れる』との言葉を頂いた。

12月20日。撤退の前段として「シリア側宿営地からの分遣班収容」を敢行した。
最小限のモノを持ってシリア側宿舎から車両離脱した。
事前に少しずつモノを運び出していたので、シリア軍検問でも撤退と気付かれなかった。
この離脱の成功により、イスラエル側宿営地にヒトとモノの全てを集中することができ、第一段階をクリァーした。

12月21日早朝、CRF司令官より、「輸送隊業務の終結及びシリアからの撤退」命令を口頭で受領した。
前日の離脱を踏まえ、隊長以下4名をもってシリア側のUNDO司令部に出向き、司令官(インド軍少将)以下に、本日付での輸送隊業務の終結と、シリアからの完全撤退を伝え、これまでの日本隊に対する謝意を伝えた。
 UNDOF司令官から、「これまでの貴国の活動に対し感謝する」との言葉を頂き、各国代表からも温かい言葉をかけてもらった。
石もて追われることも覚悟していたが、17年間に築き上げた信頼を改めて実感させられた。

その日は土砂降りで、「隠密撤収には好適」と考えていた。
ところがシリア側宿営地を後にする際、国旗掲揚塔の日の丸降下時、ゴランの空から一筋の晴れ間がのぞいた。
「お天道様も日本隊の17年間を認めてくれた」と思い、感無量だった。イスラエル側宿舎への帰路は,至る所で冠水していたが、無事宿舎地に到着できた。「ひとまずはひと山越えた」と少し安堵した。

 しかし、最後の一員がゴランを離れるまで、離れてからも、シリアに撤退は伝えなかった。
イスラエル側には空港の使用・帰国準備があるので、12月27日に伝えた。
彼らは「日本の立場を了解する。17年間の仕事に対して感謝する」と評価してくれた。

迅速な離隔→帰国・解散
12月25日、CRF・統幕から撤収計画が示されるとともに、モノの「緊急破棄」に関する指示を受けた。
ゴラン宿営地には、17年間の不要品が山と積まれており、帰国・撤収に備えた整理など行われてない。
但し、頭のトレーニングは行われていた。
過去の図上演習で撤退(緊急でなく余裕のある交代)を演練しており、破棄するモノ・持ち帰るモノのリストは出来ていた。

12月28日。日本から待ちに待った統幕・CRF・補給統制本部所属の15名の物品輸送のプロが、宿営地に到着した。
この間もゴランPKО部隊の隊員は、昼夜を分かたず物品の仕分け・破棄・梱包を行った。

12月29日。モノの搬出にかかわらない29名が、第一陣としてベングリオン空港に向かった。
脱兎のごとき民航機による離隔→帰国は、アラブのテロを警戒したことと、正月を日本でと考えた措置であろう。
この頃になると、内戦の拡大をうかがわせる流れ弾・曳光弾が宿営地からも窺えたが、シェルターへ退避する事態に発展しなかった。
 モノの処理は、持ち帰る武器・書類等、UNDOFに譲渡するドーザー・トレーラー等、焼却破棄する寝具・装具類に大別して処置した。
装備品の譲渡は、UNDOFとの間で武器に転用しないとの協定書を作っている。

 また、UNDOの輸送任務はインド隊に引き継ぎ、経路等の安全確認では彼らの直接指導にあたった。
1月14日と15日、残りの14名と、物品後送の支援に駆けつけた12名が、第2陣として帰国の途に就いた。
最終は、空自のC130輸送機に2名が搭乗し、小銃・弾薬の警戒に当たった。

1月19日、C130輸送機が無事入間基地に到着。これでヒト・モノのすべてが日本に到着した。
1月20日、市ヶ谷の防衛省にゴランPKО第34次隊の全員が再集結し、隊旗を返還して即刻解散した。
萱沼隊長によれば、久しぶりに再会した隊員は、未だに「最後までやりたかった」という者が圧倒的に多く、「安全でよかった」という者は少なかったそうだ。
 「危ないから、帰国させてくれ」という者が一名も居らず、改めて彼らのモチベーションの高さを知らされた。
そして、今回の撤収作戦を振り返り、「悔しい思いをした者も多いが、(国民から見れば)安全に撤収させなければPKОの成功とはみなさないのだ」と訓示した。

 面談の最後に萱沼3佐はこう述べた。
「日本陸軍・海軍は撤退作戦を行うにあたり、(戦略的に)転進という言葉をつかった。現場指揮官にとっても任務を放棄し、撤退するときは転進という言葉を使わざるを得ない。そうでなければ、士気高い隊員たちを納得させることはできない」
「自前の装甲車も防弾車もなかった。UNDOFから借りねばならなかったのは残念だった」
「他国の将校は、自衛隊のプロとしての仕事ぶりを評価し、日本の法律・規制を理解してくれたが、隊員レベルでは後進国の兵隊などから臆病者と言われ、悔しい思いをしている者もいた」
「志願して自衛隊に入り、志願してPKОに加わり、1年をかけてあらゆる場面を想定して訓練を重ね、仲間として同じ釜の飯を食った隊員に、悔しい思いをさせてしまったことは申し訳ない・・・」と言葉を詰まらせた。
指揮官というより求道者の姿を見た思いだった。

国策がPKОを貶めている
第34代隊長萱沼3佐の指揮・統率・判断が見事だったことは、改めて言うまでもない。
また、それを受けた43名隊員の行動も、UNDOF司令官の「日本隊はプロフェショナルで友好的」だったとの賛辞に見られるとおり、見事な撤退作戦を展開した。

 17年間のゴランPKОは、安全であるがゆえに「PKО学校」と呼ばれ、国内の報道も安全を強調する記事が多かった。
そして政府や外務省は、PKО5原則を金科玉条とし、国際貢献の見本だとして自己満足に陥っていたのではなかろうか。
自主撤退に関しては、平成5年、国連のガリ事務総長がソマリアでのイタリア軍の自主撤退を批判し、「かくの如きは、国連PKОの組織ある全般活動の統制を害し、他のPKО部隊の安全にも影響するので、国連安保理の決定に従うべきだ」と声明した。
これに対し当時の細川首相は、「我が国はガリ事務総長の主張を認めない」と声明した。

 各国からの派遣部隊で構成する国連部隊は、それぞれの思惑と制約に縛られつつ、国連の指揮下で任務を遂行している。
しかし、多くの国が安全上まだPKО活動が継続しうると判断している段階で、ある国だけが危険だからと、進退自在の行動をとってよいはずがない。
またそれは、国際通念や軍隊の信義に沿ってない。
 中東やアフリカでは、いついかなる場合に突発事態が発生するかわからない。
そうした中で、個人防護用の最小限の武器しか持たせず、装甲車も武器に相当するとして許さず、慌てて現地で防弾車両(武器に相当しない?)を購入する。
安全が崩れたから自主撤退するので、帰って来いと言うPKО五原則は、はじめから間違っていたのだ。

 この17年間にも、それぞれの国益や判断に基づいて撤退する国、新たに参加した国があって、入れ替わりも見られた。
日本だけが自国の都合で勝手に撤収したという捉え方は、正しくないかもしれない。
ただ、安全が確保できないので、危険だからそこを離れて帰国するという思いが付きまとう。
隊員が感じた「悔しさ」とは一体何なのかを、深く考えてみる必要がある。
「命は地球より重い」と言われる現代日本の風潮の中で、地球や命よりもっと重いものが「使命感」であり「誇り」であることを隊員たちは身をもって示し、実践してくれたのだ。

安全確保を他国軍隊に頼らねばならない悔しさ。
自分たちの宿営地さえ守れぬふがいなさ。
報復や妨害への懸念から仲間の外国PKО隊に知らせず、逃げ出さねばならない恥ずかしさ。
重要な時に大使館を閉鎖して邦人を見捨てる外務省役人のだらしなさ。
外務省は大使館を閉鎖した時点で、ゴランPKОの打ち切りを進言すべきだった。

 PKО隊員にとって「危険だから軍隊・自衛隊が派遣されるのであり、選ばれた我々がリスクを負うのは当然で、名誉や誇りや強さを賭けて任務を完遂する」という世界標準の軍人・武人としての価値観が不完全燃焼し、挫折したのではなかろうか。
国の施策・法律によって貶められる防人たちの苦悩は、ゴランPKОで終わりとすべきだ。

 最後に、旧陸軍の方に一言申し上げたい。
「自衛隊は天皇の軍隊でない、 (自衛隊は)一発も弾を撃ったことがない」と公言され、自衛隊・自衛官による国防に不安や不信を示す方が今もおられる。
 自衛官には、忠君愛国という精神はないかもしれないが、志願制の下で更に志願して空挺・レンジャー・パイロット・PKО・西方普連・即応集団等をめざす彼らは、天皇への忠誠や忠義に代わるものとして国土と国民を守るという高い使命感を持ち、プロとしての練度を日々培っている。
「木に竹は継げない」だろう。だが彼らは、ひ弱に見えてもやるべき時はやってくれる。東日本大震災でもPKО活動でも、それを見せてくれた。もっと自衛隊や隊員を信用してもらいたい。命に係わる任務をも厭わぬ現場の苦労・真剣さ・真面目さを忘れないで頂きたいものです。
                                                 (2013.10.23)     『偕行』12月号より転載


資料 萱沼文洋「緊迫の自衛隊ゴラン高原PKО」読売クォータリー 2013年春
野外令 平成元年版
和田盛哉「PKОの反省と政治姿勢」『偕行』平成5年12月号
喜田邦彦「ゴラン高原の軍事的価値」SECURITARIAN 1997.9

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ゴラン高原PKО「撤退作戦」の検証  
  ー 最後の隊長・萱沼3等陸佐に聞く −

喜田 邦彦
 6 区 隊
 職種:普通科