ベラルーシは国土の45%が森林に覆われ、1万以上の湖が点在する自然豊かな森と湖の国です。
1991年にソ連から独立し、独裁者と言われているアレクサンドル・ルカシェンコ大統領の下、ロシア寄りの政策がとられてきました。
ベラルーシはヨーロッパとロシアに挟まれた地勢のため、過去に何度も国土を蹂躙された歴史があり、人々は貧しくても平和なソ連時代のような生活を望んでいるようです。

人口は約950万人、広さは約20万平方キロで日本の約半分というところです。
住民はベラルーシ人が約85%、ロシア人が約8%、宗教は東方正教会が80%で、主な言葉はベラルーシ語とロシア語です。
国民の科学技術の水準は高く、長い冬を過ごす知恵としてITが発達しており、世界各国の企業が開発拠点を置いています。

1986年に原発事故を起こした「チェルノブイリ」はウクライナの北部にあるのですが、風向きの関係でベラルーシが大きな被害を受け、土壌汚染や子供たちの遺伝子異常の問題を抱えていると言われています。

ベラルーシは「美人の国」だそうで、テニスの「マリア・シャラポワ」選手もベラルーシの出身だと言えば十分納得できます。 美人に会えるのを楽しみに旅行に出かけましょう。

           

ミンスク空港から市内への移動の途中、「栄光の丘」の上に「解放記念碑(対独戦争におけるミンスクの解放記念碑)」が見えました。
ミンスクの町はソ連時代のような無味乾燥の四角い建物が並んでいますが、ルカシェンコ大統領肝いりの図書館や新しい商業施設も見受けられます。
もうかなり遅い時間でしたが、まだ明るい中でカジノを備えたスマートなホテルに到着しました。

  

  

首都ミンスク
ミンスクの朝、最新のホテルとソ連時代を想像させるトロリーバスの対比がいい雰囲気を出しています。

  

ミンスクの町には東方正教会などたくさんの教会があります。

  

町には多くのモニュメントが飾られており、心豊かにしてくれます。

  

スヴィスラチ川を見下す丘の上に聖霊大聖堂があり、内部は豪華なイコンが飾られており、敬虔な信者がお祈りをしていました。

  

  

スヴィスラチ川の河岸に戦前の商家を復元した一画、トラエツカヤ旧市街地区があります。
ユダヤ人が住んでいた地域についても復元されています。
また、2014年に開催されたソチ・オリンピックの時に建てられたホテルや高層マンションも並んでいました。

  

スヴィスラチ川の河岸にアフガニスタン派遣兵士の慰霊碑があります。
1979年からソ連がアフガニスタン紛争に出兵し、その多くはベラルーシやウクライナなどの連邦国から派遣された兵士だったそうです。
近くに「涙を流す天使」の像があり、実際にポタポタと涙を流していました。

  

ロシアの革命家、レーニンの堂々とした姿が見られます。その後ろは国会議事堂です。
白っぽい建物が多い中、真っ赤なレンガ造りがひときわ目立つのが聖シモン・聖エレーナ教会で、この教会の脇にある鐘は、長崎の浦上天主堂から贈られたものだそうです。

  

  

レーニン像のすぐ傍には大学があり、この日は試験日のようで学生さんたちが緊張の面持ちで試験の開始を待っていました。

  

第二次世界大戦でのソ連の勝利を記念した高さ40mのオベリスクがそびえる「勝利広場」。
ミンスクの町の道路幅が広いのは滑走路としても使用できるように設計されたという事でした。

  

世界遺産のミール城・ネスヴィジ城へ
ミンスクから約100km、世界遺産に指定されたベラルーシの二つの城、16世紀に築かれたミール城とネスヴィジ城は、独特の漆喰装飾の外壁をもつ珍しい石造建築で、度重なる戦禍で被害を受けました。
1991年の独立後に修復され、今は博物館として美しい姿を残しています。

  

歴代の城主たちは、領地を治めるだけでなくハンティングやコンサートやダンスパーティなどを楽しんでいました。

  

優しいガイドさんが説明をしてくれました。

  

ミール城の傍の古民家のような店で昼食をとりました。
きのこ汁のようなスープと、メインはマンチャという名の豚肉のサワークリーム煮でした。
地ビールもおいしかったです。

  

「王冠のない王」と言われ財力、権力をも持ち合わせていたラジヴィル家の居城がネスヴィジ城です。
ネスヴィジ城は1533年に、当時のリトアニア大公国の最高実力者ラジヴィル家の所領になり、その後、1939年にソ連の侵攻によってラジヴィル家が追放されるまで改築しながら使用されました。
ミール城はラジヴィル家が別荘として使用していたようです。

  

この日は土曜日で、お城で結婚式を挙げる人達に出会いました。

  

ブレストへ
ミンスクからブレストまで350kmありますが、標高差10mもないような平坦地と湖沼が連なり、白樺や松(杉?)の森林や麦を中心とした農地が広がっています。
この辺りは北緯52度〜53度くらいで、北緯46度付近の稚内よりずっと北の位置にあります。
ミンスク州とブレスト州の境界にヨーロッパ・バイソンのモニュメントが立っています。
ヨーロッパ・バイソンは野生では一度絶滅しましたが、動物園などに残っていた数頭から、ベラルーシとポーランドの境界にあるベラヴェジの森で保護されて数百頭まで回復しました。

  

日暮れ時、といっても夜8時頃にポーランド風のホテルに到着。
音楽を聞きながら美味しい食事をしました。

  

翌朝、散歩をしていたら、ブレストのシンボルであるヨーロッパ・バイソンの看板が出ていました。

  

ブレストの町はポーランドとの国境に位置し、人口は約30万人で、主な工業は食品加工、織物、金属加工業などで、鉄道の分岐点にあたる流通の拠点でもあります。
11世紀に町が建設されましたが、1319年にリトアニアに征服されて「ブレスト・リトフスク」と呼ばれました。

ブレスト要塞
ブレストはロシア、ドイツ、ポーランド、ソ連、ドイツに占領され続けました。
第2次世界大戦中の1941年には、ナチス・ドイツ軍の猛攻撃を受け、ソ連兵はわずか500人の劣勢ながら要塞を拠点に1か月も戦い抜き、ミンスクが陥落し、スモレンスクが攻撃を受けている頃も組織的な抵抗を続け、8月に入ってついに全滅しました。
1944年にソ連がドイツ軍から町を奪還し、その後、ソ連邦が解体した後にやっとベラルーシ領になって現在に至っています。

  

T34戦車が飾られていましたが、この戦車はブレストの防御戦では使われなかったそうです。
男の人の大きな像の前に来ました。
像の前にきれいな花が飾られていますが、間もなくやって来る独立記念日(7月3日)の準備だそうです。

  

看板に「ブレスト要塞」が描かれています。
1941年6月22日朝4時、ナチス軍は絵の右下のポーランド側から侵攻してきました。
当時、国境の川の向こうはドイツが支配していたポーランド領でした。

  

要塞を守っていたのはソ連KGBの国境守備隊で、家族とともにドイツの侵攻を食い止めました。

  

先ほど門の所で見かけた土地の人達が要塞の中にある教会に日曜礼拝に来ていました。
敬虔なる東方正教徒の娘さん達です。

  


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「キエフの大きな門」 (2017.6.23〜7.1)
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