「キエフの大きな門」 (2017.6.23〜7.1)
肥沃な穀倉地帯・ウクライナ


ブレスト要塞から南へ少し走るとウクライナとの国境です。 
ウクライナは日本の1.6倍の国土をもち、平坦で肥沃な穀倉地帯が広がります。
人口は約4500万人で、ウクライナ人が全人口の約8割を占め、ロシア人が約2割で、宗教は、正教会の一員であるウクライナ正教会です。

黒海北岸に一大勢力を築いた遊牧騎馬民族スキタイが駆け抜け、10世紀にはヨーロッパ最大の版図を誇ったキエフ大公国の首都キエフが置かれました。
キエフ大公国が13世紀にモンゴル帝国に滅ぼされた後は、ウクライナ・コサックの国家が興亡し、「ヨーロッパの穀倉」地帯として知られ、19世紀以後産業の中心地帯として大きく発展しており、天然資源にも恵まれ、重化学工業が発達しています。

ロシア帝国の支配を受けた後、ソビエト連邦内の構成国となっていましたが、1991年ソ連崩壊に伴い独立しました。
その後、2004年の「オレンジ革命」以来、独自の道を歩み出しました。

ウクライナはヨーロッパ志向が強い国ですが、2014年ヤヌコビッチ政権が崩壊し、経済はスランプ状態です。
また、ドネツク地方が独立宣言をし、クリミアがロシアに編入されました。
今回の旅行もウクライナ東部の危険な地域は避けています。

心配ばかりしていても始まりません。
ウクライナもベラルーシと世界一を競う「美人の国」だそうです。
そう言えばユーリヤ・ティモシェンコ元首相もすごい美人でしたね。(もっとも彼女はウクライナ民族の出身ではないようですが・・・)

               

ウクライナ北西部の町クレヴァニ
ベラルーシのブレストから国境を越えると道の舗装が壊れたガタガタ道になりました。
ベラルーシの方が豊かなのかと思いガイドさんに尋ねると、その通りで、一人当たりのGDPはベラルーシ・ウクライナ・モルドバの順でした。

途中でバスのオイルが漏れたので、今までワイシャツ姿で運転していた運転手さんが作業服に着替えてオイルホースの交換をしてくれました。
この国ではJAFを呼ぶのは無理なので、運転手さんが自力で直してしまいます。
修理作業中にガソリンスタンドにソ連製のクラシックカーに乗った若者が来たので、1枚写真を撮らせてもらいました。

  


約260km走ってウクライナ北西部のクレヴァニへ到着し、「愛のトンネル」を観光しました。
2014年、今関あきよし監督が撮った映画「クレヴァニ、愛のトンネル」の舞台にもなりました。
約3qにわたり、鬱蒼とした植物に覆われた緑のトンネルで、ここをカップルで歩くと必ず恋が成就するという人気のスポットだそうです。

  

リヴネ
クレヴァニの近く、リヴネに到着しレストランで夕食をとりました。
グヤーシュという名のパプリカのスープとペリメニという名のギョウザでした。このギョーザは4人前です。

  

リヴネのホテルに宿泊しましたが、日曜日の夜でもあり、多くの若者が語り合っていました。
ホテルの前にはウーラスというリヴネ出身の作家の彫刻がありました。

  

朝食後、約5時間、約330km走って首都キエフに移動しました。

  

首都キエフ
いよいよ「キエフの大きな門」とご対面です。
ウクライナの首都キエフにある「大きな門」は、9世紀後半から1240年にかけて「キエフ大公国」の時代に建築されましたが、1240年にモンゴル帝国の軍勢によって破壊されました。
今、キエフには「黄金の門」が建っており、これがムソルグスキー作曲の組曲「展覧会の絵」の中の「キエフの大きな門」だと思いましたが、実はそうではないんだそうです。

ムソルグスキーの友人、ハルトマンは1869年に破壊されていた「キエフの門」の再建コンペに応募したのですが、キエフの門の再建計画は実施されないまま終わり、ハルトマンは亡くなりました。
そしてハルトマンの友人であったムソルグスキーが亡き友人を追悼するために作曲したのが、「キエフの大きな門」だそうです。
ムソルグスキーはピアノ曲として作曲しましたが、後にラヴェルがオーケストラ曲に編曲し、あのトランペットのプロムナードになったのですね。

  ◎ 展覧会の絵より「キエフの大きな門」

「黄金の門」は1982年に復元され、新しい建物は、元の門の遺跡をカプセルのように覆い隠すように建てられています。
すぐ傍に古くから有名なホテルがあり、ここで重要な会議が開かれたそうです。

  

その隣には、昔、ゲシュタポの刑務所だった建物があります。今は政府の機関になっています。
ソフィア大聖堂の前のソフィア広場がキエフの中心地になっています。

  

「黄金の門」から真っ直ぐ進むと「ソフィア大聖堂」に至ります。
ウクライナは988年、ウラジミール大公が東方正教会を国教にし、聖ソフィア寺院はヤロスラフ公が1037年に建設した現存するキエフ最古の教会です。
「オラント(祈り)」と呼ばれる聖母マリアのモザイクが飾られていました。

  

「聖アンドレ教会」は、アンドレ坂を見下す丘の上に立っていますが、突然の雨・風・雷に見舞われました。
ビルの玄関先に逃げ込んで緊急避難をしているうちに青空が戻ってきて、「聖ミハイルの黄金ドーム修道院」に向いました。
聖ミハイル教会は黄金のドームの美しさで知られていましたが、1936年スターリンによって破壊され、1991年のウクライナ独立後に経済が困難をきわめている中でようやく修道院として再建されたそうです。

  

東スラヴで最も長い歴史を持つペチェルスカヤ修道院を見学しました。
ペチェルスカヤ修道院はソ連時代には「歴史記念碑的建築群」として博物館になっていましたが、1988年には正式に宗教活動を再開し、現在はロシア正教ウクライナ支部の総本山になっています。

  

修道院では聖書の翻訳や歴史書の編纂、イコンやモザイクの制作などが行われています。

  

ペチェルスカヤ修道院からキエフの町を見るとドニエプル川沿いにキエフの町が広がっています。

  

オデッサへ
キエフ・ボリスピリ空港から、空路国内線でオデッサへ。
キエフの町の中のサッカー場等の建物を横目で見て郊外に向いますが、この郊外地区の人口増加がすごく100万人もの人が新たに生活の場にしているという事でした。
赤い丸いビルは、アフガン帰還兵士の住宅だそうで、ここでもベラルーシと共に、ソ連邦の周辺国からの派兵が行われていたことが判ります。

  

キエフのボリスピル空港からUkraine International AirlinesのEmbraer 190でオデッサに向います。

  

「黒海の真珠」オデッサ
オデッサは「黒海の真珠」と呼ばれる黒海に面した港湾都市で、様々な国の支配を受けてきたため、国際色豊かな都市となりました。

ここが「ポチョムキンの階段」です。
「戦艦ポチョムキン」の水兵姿のアザラシくんとディアナちゃんがパフォーマンスをしていました。

  

歴史地区では、ドイツ人の大金持ちの家や恋人たちが愛を誓い合うという愛の橋を見ました。
オデッサは黒海沿いの大金持ちの別荘地という感じです。

  

オペラ・バレエ劇場の下にはカタコンベ(地下墳墓)があり、地盤沈下が問題になっているそうです。
町中にはトラム(路面電車)が走っています。

  

オデッサでの昼食は赤かぶのボルシチと牛肉のグリルでした。

  


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